建築
2022年1月14日更新
[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[11]|団設計工房 所長 永山 盛孝さん(77)
本連載は、沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士に話を聞き、リポートする。今回は団設計工房所長の永山盛孝さん。現代の手法や材料を駆使しながら沖縄に根ざした建築に取り組み、本質的な「沖縄らしさ」を目指してきた。自邸「Nハウス」でも、さまざまな実験的・挑戦的な試みを行った。
団設計工房 所長
永山 盛孝さん(77)
ながやま・せいこう/1944年、那覇市生まれ。63年、那覇高校卒業。67年、福井大学工学部建築学科卒業、田中・小西建築事務所へ。71年、我那覇設計事務所。72年、大浜信春建築事務所。76年、一級建築士事務所団設計工房を開設。2000年、週刊タイムス住宅新聞で「安全・快適な住空間づくり」を20回連載。13年、「建築家のすまいぶり」(中村好文・著)にNハウスが掲載。
沖縄の素材を使うのではなく本質を捉える
「沖縄らしさ」を現代流で
近所でベスパ(スクーター)に乗って通勤してる建築士のお兄さんを見て、建築士に憧れました。そんな不純な動機で願書を提出したのですが、次第に建築を面白いと思うようになりました」と永山盛孝さんは進学を決めた時の話をしてくれた。
大学では、著名な建築家が講師を務める建築セミナー合宿に参加。磯崎新さんが恩師の「丹下健三論」を講義している時に、近代建築の巨匠ル・コルビュジエの訃報が飛び込んできて場が騒然とした。コルビュジエを敬愛した丹下健三、その弟子筋である磯崎新と、思想が受け継がれていることを感じ、建築に対する意欲を刺激されたという。
「沖縄らしい作品を作ってこなかった私ですが、沖縄に根ざす建築の話ならできるかもしれません」と永山さんは自邸であるNハウスを紹介してくれた。
往々にして建築家の設計した自邸は、普段の仕事ではできない実験的、挑戦的な計画や、これまでどのように建築に向き合ってきたのかというエッセンスが詰まっている。
Nハウスを構想していた時のスケッチブックの1ページ目には「沖縄の素材とこれまでの様式を使わずに沖縄を表現したい。もっと軽く! もっと明快に!」とコンセプトが表明されている。「具体的な形態・素材ではなく、沖縄の気候・風土に対する考え方を現在の手法・材料でまとめ上げる」ことで伝統を継承しようとする挑戦的な試みだ。
自然感じる緩やかな空間
その意識が一番表れているのは、屋根の上に大屋根をかけるダブルルーフ(二重屋根)だろう。Nハウスでは、子ども室上部のパーゴラが大屋根にあたる。沖縄の日射や風雨などを緩和して、適度な自然を感じられる空間を目指したときの最適解だと考えた。発想としては大学生の頃から考えていたらしく、卒業設計のスケッチブックには、沖縄をテーマに「建物の中にいても、建物の外である」ような空間が検討されていた。
「この住宅は空間構成も、門→アプローチ→玄関→廊下→各室のような序列だったものではなく、入り口からリビングや台所、子ども室に直接アクセスできるようなルーズな構成になっています」。ここでは、ヒンプンを通り抜けたら、一番座や裏座、台所などの各所にアクセスできる沖縄の伝統住居の緩やかな構成が意識されている。
「沖縄の素材を使わないというコンセプトだったので、他の建築家の方々にお叱りを受けるかと思っていましたけれど、思いのほか関心を持っていただきました。表面的なデザインで“沖縄らしさ”を演出するのではなく、本質を捉えた新しい様式に若い方々もトライしてほしいですね」と語ってくれた。
永山さんにNハウスを案内していただきながら、表からは分からない本質的な「らしさ」を考える機会と、新たなことに挑戦する気概を教えていただいた。
Nハウス(1995年、那覇市与儀) 地上2階、地下1階、鉄筋コンクリート造の住宅。閉鎖的にならないよう一部を道路に開放した公園的な外部空間が設けられている。夏には付近の子供たちがセミ取りに来る。
照明不要で涼風の抜けるリビング。周囲からの視線もうまく遮っているので、カーテンを設置する必要もない。永山さんデザインの長テーブルやシンメトリーな構成の計画により端正な空間になっている
屋内的な屋外となっている1階。左側階段を下りれば子ども室(現在は奥さんのアトリエ)。右奥の階段を上がればリビング隣のテラスにアプローチできる
地下1階のドライエリア部分。階段状になっており、1階から直接の出入りもできる。右手の子ども室は、屋上のパーゴラで緩和された光が天窓から降り注ぐので地下でも明るい
リビングから望む光庭。ルーバー屋根(写真上)や山形鋼の壁(右奥)は、強い日射や視線を遮り、涼やかな風を通す。下には子ども室の天窓が見える
花ブロックに代わる素材として、パンチングメタルで作った円柱形の柵。西日が差す時間になると、きれいな影模様をつくってくれるという
1階(左)と2階の平面図。アプローチ(赤矢印)の自由さやリビングの開放感が平面プランからうかがえる
上下の緩やかな空間配置がうかがえる断面図。子ども室を地下階に配置することで建ぺい率算入を回避しつつも、明るく快適な空間を創出している
Nハウス構想中のスケッチブックより。1987年から計画され、1995年に完成。二重屋根の参考になったアフリカの民族家屋のスケッチも描かれている
永山さんは設計に関わった医療・福祉施設で、「完治・リハビリ後に、家庭に帰った高齢者が具合を悪くして再度施設に戻ってきてしまう」という事例が多いことを耳にした。そのとき「住宅のつくりが高齢者の居住に適していないのではないか」という課題意識を感じたという。
1990年頃、島村聡さん(現:沖縄大学福祉文化学科教授)に誘われてバリアフリー研究会に参加し、識者を招いたり、一般向けの講演活動などを続けた。「当時はバリアフリーという言葉も知られていなかったし、関連書籍などもほとんど無く、手探りの状態でしたね」と永山さんは語ってくれた。
建物のバリアフリー化を促す法律が日本で初めて制定されたのは1994年のハートビル法からだ。Nハウスにおいても、寝室近くに水回りが配置され上下の移動なく生活できるようになっており、将来ホームエレベーター設置可能な計画とするなどの配慮がなされていることが分かる。
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1880号・2022年1月14日紙面から掲載