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2021年12月10日更新

[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[10]|元・環設計 主宰 與儀清春さん(77)

本連載は、沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士に話を聞き、リポートする。沖縄県立武道館や松城タウンホーム、那覇市立寄宮中学校などの計画に関わった、元・環設計主宰の與儀清春さんは「作図が苦手でも、さまざまな人と出会い、つながり、チームとして連携することで建築はできる」と話す。

元・環設計 主宰 與儀 清春さん(77)

元・環設計 主宰
與儀 清春さん(77)


よぎ・きよはる/1944年、山口県下松市で生まれ、那覇市(旧真和志村)銘苅で育つ。63年、沖縄工業高校卒業。68年、工学院大学卒業後、同大学荻原研究室(研究生)。70年、二幸設計に勤めつつ、アトリエ66の活動。72年、宇栄原譲氏と共にアトリエ究を主宰。74年、環設計設立。97年~2009年、那覇市議会議員。09年、那覇市文化協会、王府おもろ伝承活動。空手普及活動。



得意分野生かした設計チームの論理的なプランナー
出会いや絆が建築をつくる

與儀清春さんが主宰していた環設計は、現在、私が在籍しているアトリエ・ノア主宰の本庄正之が、若い頃に勤めていた事務所だ。今回は、ある意味で孫弟子が訪ねてきたような体になるかもしれない。

 
奥深い建築計画学

「建築は1人ではできません。さまざまな人とのつながりでできています。だから、なるべく関わってくれた方々の名前も一緒に紹介してほしいですね」と與儀さんは開口一番に話した。

與儀さんは自身のことをプランナーだと語る。表現を主体とするデザイナーとの対比で、自身は論理的な計画者という位置づけだ。

沖縄工業高校の第13期生の中では、赤嶺和雄さん(連載第2回、2020年12月11日発行号で紹介)たちのようなユーディキヤー(よくできる)グループとは違い、作図表現は昔から下手だったと與儀さんは苦笑いした。卒業設計が手につかず「君はどうするのか」と数学チブル(数学脳)の上江洲先生に声を掛けられて思わず進学の意思を語ってしまった。進学なら卒業設計をしなくても済むのでは、と考えてしまうほどの苦手意識だ。

工学院大学に入学して荻原正三研究室に入ってから、建築計画学の奥深さを知った。「建築学生に人気のある研究室のほとんどは意匠(デザイン)系で、成績上位者優先でした。相対的に計画系の研究室は入りやすかったんです」。そこで、建物の役割に応じた機能を考えたり、その機能を実現するための手法を確立したりする建築計画を知った。

「荻原教授の研究室では、卒業後も研究生として病院や農村計画の調査に関わりました。病院ならばどこの使用頻度が高く、どの機能とのつながりが強いかなど統計的な調査もするものだから、それを当てこんでいくだけで最適な配置計画ができてしまうのです。実務に携わるようになってからも当時の経験が生きました」と笑う。


学びもチームも縁

「研究生時代、新宿駅のホームで偶然に赤嶺和雄君と6年ぶりに会ったんです。ちょうど最高裁判所の設計コンペをしている最中だったので彼も誘いました」

沖縄に戻ってからも設計を続けている第13期生の面々で「アトリエ66」というグループを作り沖縄建築を学んだ。そこで先輩建築家の又吉真三氏と久高幸正氏による沖縄建築研究会を紹介され、玉陵(たまうどぅん)や末吉宮などの復元調査について回ったりもした。

「環設計を設立してからも、所員を含めさまざまな縁に助けられました。計画やコンセプトをつくるのは自信があるのだけど、言葉や考えを形にするのは本庄正之君が事務所にいたからできた。沖縄県立武道館のような大きい案件などでは他の事務所とも連携しなくてはなりませんでした。だから若手の所員が活動しやすく他とも交流できるようなチームづくりにはずっと配慮してましたね」と語ってくれた。

◇        ◇        ◇

仕事だけではない活動や交流の数々が、小さな事務所でも大きな仕事を受けたときに連携して臨む体制を築けるような下地になっていたのだろう。課外活動的なことをしている私も、知らず知らずのうちに上の世代の建築に対する姿勢から影響を受けていたのだろうなと感じた。




沖縄県立武道館(1997年、那覇市奥武山)
左がアリーナ棟、右奥が錬成棟。アリーナ棟の屋根には、先人たちが万国津梁を志して船出した那覇港およびその先の海に向けて、龍を模した装飾が施された「津梁ブリッジ」が延びる
左がアリーナ棟、右奥が錬成棟。アリーナ棟の屋根には、先人たちが万国津梁を志して船出した那覇港およびその先の海に向けて、龍を模した装飾が施された「津梁ブリッジ」が延びる

武道振興を主とした体育競技および各種イベントのための施設。與儀清春、松田幸吉、呉我春明、崎山英真、本庄正之、與儀清吉の環・閃・NOA建築連合共同設計による1992年の設計競技当選作品。実働メンバーは、本庄正之、与那嶺徳、塩真孝彰、新川清則、嵩原良一、當山幸光、城間強ら。與儀さんは、主に設計主旨や基本計画の創案をするコンセプトメイキングに関わった。

国道側から見た様子。錬成棟とのつながりを考え、国道側にエントランスは設けず、敷地奥へと続くアプローチを設けた
国道側から見た様子。錬成棟とのつながりを考え、国道側にエントランスは設けず、敷地奥へと続くアプローチを設けた
 



首里聖アンデレ教会(1994年、那覇市首里真和志町)
教会堂エントランス部分の赤瓦葺きの半円形の庇(ひさし)が入り口を際立たせている教会堂エントランス部分の赤瓦葺きの半円形の庇(ひさし)が入り口を際立たせている
教会堂エントランス部分の赤瓦葺きの半円形の庇(ひさし)が入り口を際立たせている

守礼門前の綾門大道沿いに建つ、赤瓦が葺かれた教会堂。完成時は大きなガジュマルがあり、緑を残すよう配慮して計画されていた。




松城タウンホーム(1984年、那覇市繁多川)
アプローチの共有空間にある緑は現在も手入れが行き届いている。「那覇市の指導による魅力ある街づくり」第1号の建物となっているアプローチの共有空間にある緑は現在も手入れが行き届いている。「那覇市の指導による魅力ある街づくり」第1号の建物となっている
アプローチの共有空間にある緑は現在も手入れが行き届いている。「那覇市の指導による魅力ある街づくり」第1号の建物となっている

沖縄で最初期のタウンハウス。当時は1団地の連棟型住宅に対する公庫融資の事例が無かったことから、與儀さんは公庫対象となるよう奔走したという。しばらくは2棟を環設計、アトリエ閃、アトリエNOAの事務所にしており、沖縄県立武道館の設計にも結びついた。




平良外科(1970年、那覇市繁多川)
與儀さんが、二幸設計在籍時代に増築設計で関わった建物。二幸設計は久高幸正、幸地正夫による共同主宰。與儀さんは「工学院大学で培った経験を設計に生かすことができた」と振り返る。
與儀さんが、二幸設計在籍時代に増築設計で関わった建物。二幸設計は久高幸正、幸地正夫による共同主宰。與儀さんは「工学院大学で培った経験を設計に生かすことができた」と振り返る。




那覇市立寄宮中学校(1990年、那覇市寄宮)
設計は主に本庄正之、小橋川茂によって進められた。「地域と連携できる動線計画にするため、正門以外に、周辺との連絡通路となるような通用門の必要性を説くなど調整した」と與儀さん。
設計は主に本庄正之、小橋川茂によって進められた。「地域と連携できる動線計画にするため、正門以外に、周辺との連絡通路となるような通用門の必要性を説くなど調整した」と與儀さん。


 
 
 米軍に追われた住まい 
1955年に建てられた木造隣家。改装し、書斎として「おもろ謡(ふ)きゅる」(おもろを唱える)、空手の稽古等に使っているという
1955年に建てられた木造隣家。改装し、書斎として「おもろ謡(ふ)きゅる」(おもろを唱える)、空手の稽古等に使っているという

話を伺いに訪ねたら邸宅の周囲も案内してくれた。元々は現在の那覇新都心内の銘苅に住んでいたが、米軍属による牧港ハウジングエリア建設のため、1953年に銃剣とブルドーザーによって追い出されることとなった。

周囲には同様に土地を追われた銘苅の人々が多く住んでおり、今も残る木造家屋の多くは1955年に建てられたものだという。與儀さんは隣に建つ当時の家屋を購入して改装し、「書斎および空手鍛錬のための部屋として使っている」と紹介してくれた。




[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。

毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1875号・2021年12月10日紙面から掲載

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