建築
2021年8月13日更新
[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[7]|中本 清さん(74)
沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士らに話を聞いてリポートする本連載。おきなわ郷土村や首里城の復元に携わった中本清さんは、さまざまな分野に挑戦し、幅広い関心を持って仕事に取り組んできた。(文・写真 普久原朝充)
中本 清さん(74)
なかもと・きよし/1947年、竹富町生まれ。70年、名古屋大学建築学科卒業。生田勉都市建築研究室を経て、72年より㈱国建。80年、沖縄海洋博公園「おきなわ郷土村」の調査および設計に携わる。80~85年、サウジアラビア、リビアで油田労働者の街をつくるという計画のためサンフランシスコ常駐。86年、首里城復元事業発足、中心メンバーとして設計に関わる。90年~、㈱琉信ハウジング。2001年、中国浙江省長興県の都市開発コンペグランプリ。09年、NPO沖縄県建築設計サポートセンター設立。10年、NPO蒸暑地域住まいの研究会設立。10~14年、沖縄県建築士会会長を務めた。17年~現在、㈱宮平設計の顧問。
歴史的建造物の復元や海外での仕事
多分野に飛び込み関心広く
国建に入った当初は、構造設計を担当していたという中本清さん。ムーンビーチホテルの構造設計にも携わったという。そんな中本さんが歴史建造物の復元などに関わり始めたキッカケは、海洋博記念公園内の「おきなわ郷土村・おもろ植物園(以下、郷土村)」の設計だ。
「会社で真っ先に参加希望の手を挙げましたね。もともと古い建物の復元などを目指して働いていたわけではないけれど、他分野の専門の方々と共同しているうちにより歴史に興味を持つようになりました」
郷土村は海洋博閉幕後の跡地利用として企画された。「万葉集にうたわれている植物を集めた萬葉植物園のような沖縄の植物園を作ってはどうか。沖縄には『おもろさうし』という素晴らしい歌集がある」と、当時、皇太子だった平成天皇の提案を起点に、沖縄の集落風景も再現することとなった。おもろさうし研究者の外間守善さんや、集落調査研究者の仲松弥秀さん、歴史家の高良倉吉さんなどさまざまな専門家を交えて協議した。
「沖縄の集落構成にはルールがあります。その背景を学ぶうちに、こういった集落を支えていた琉球王府とは何だったのだろうかと関心が広がりました」
この仕事が終わった後、中本さんは米国に赴任した。「『誰か海外に行きたい人?』って聞かれて、ここでもすぐ手を挙げましたね」と笑う。アフリカ大陸地中海沿岸部のリビアで油田工場労働者の街をつくるという大がかりなプロジェクトだった。資材調達のため米国中を駆け回り、アラビア石油会社と交渉するなどグローバルな仕事だったという。
「仕事が一段落して沖縄に戻ってきたときに、ちょうど首里城再建のプロジェクトが始まったんですよ。『シタイヒャー!』(やったー!)って思ったね」
郷土村の経験が首里城に
平成の首里城再建で、設計の中心メンバーだった中本さんは、建築資材の大径木を探して台湾にも足を運んだ。また、郷土村の設計のとき、職人に聞き取りしながら書き留めていた沖縄特有の木組みや仕口などの知識も役にたったという。
とりわけ新資料として発見された、1768年の首里城改修時に作成された寸法入りの図面『寸法記』との巡り合いは関係者一同で喜んだ。「残念なことに2019年に正殿が焼失してしまったが、平成の復元の時に、高良倉吉さんたちと研さんして得た蓄積があるので、令和の復元は多くの方々の参加で実現できると信じています」と話す。
今後を担う人たちへの意見もうかがってみた。
「若い世代には(上の世代の良いところを)どんどん盗んでほしいですね。こちらが献立をつくって出すのを待つのではなく、自分から飛び込む気持ちが大事だと思います。僕も先代の方々に飛び込みましたから」と笑顔で語ってくれた。
海外での仕事や歴史建造物の復元、都市再開発など、通常の建築設計とは異なるような業務にも手を挙げ、さまざまな先人に学んだ中本さんらしい回答だ。挑戦する気概を学ばせていただいた。
おきなわ郷土村・おもろ植物園(1980年、本部町石川) 琉球弧の島々の伝統住居を再現した海洋博記念公園内の展示空間。郷土村部分は『神と村』などの著作がある、沖縄の民俗文化研究者・仲松弥秀さんが監修した。
貫木屋(ヌチジヤー)や穴屋(アナヤー)のような伝統木造の住居だけでなく、沖縄の集落構成として御嶽(ウタキ)を中心とした祈りのヒエラルキーも考慮して再現されているところも見どころ。来年を目標にリニューアルの計画があるとのこと。
おきなわ郷土村の神アサギ。祭祀(さいし)の中心となる祖霊神を招く施設。祖霊神が鎮座する御嶽のほど近くの広場に建ち、広場に面して村立てに関わる本家と祭祀を執り行うノロの家が建つ
穴屋の壁は、竹で編まれた「チニブ(チヌブともいう)」によって通気性のよいつくりになっている。屋根を含め、建築素材として竹が上手に使われている
おもろ植物園。沖縄最古の歌謡集である『おもろさうし』にうたわれている植物が展示栽培されている
おもろ植物園内に、おもろと共に展示栽培されているリュウキュウチク。添えられたおもろは「与那嶺の大親/竹つぼに造ておちへ/按司襲いぎや/島討ちする矢柄」(おもろさうし第十九巻 1293)と、「竹」という言葉が使われている
首里城(1992年、那覇市首里金城町)
在りし日の首里城。2018年元旦行事の風景(本庄正之撮影)。中本清さんは平成の再建の時、建築設計の担当者の一人として尽力した
残念ながら2019年10月末に焼失してしまった首里城正殿跡を御庭(ウナー)から臨む。現在は被災した造作部分や基礎、及び古い基壇部分の遺構などが展示されている。2026年の再建を目指して準備が始められている
吟行しながら沖縄の集落を知る
「郷土村計画のために仲松弥秀先生と一緒に沖縄各地の集落をまわったりしました。『通し御嶽』の見方とか教わりましたね。『沖縄の集落は移動するんだよ』とおっしゃってたのが印象深いです」と中本さん。
通し御嶽とは、集落が移動した時、旧集落の御嶽に向けて設ける拝所のこと。遥(よう)拝所とも呼ばれ、その向きをたどれば集落の変遷が分かるという。
中本さんは、今でもよく沖縄の集落を訪れる。月1回程度、同好の俳句会の人々と由緒ある場所を訪ねて句を詠む吟行をしており、累計で200回以上におよぶ。その様子をまとめた冊子は、地図や図版、解説まで添えられ、書籍化できるのではないかという内容だ=写真。
本記事を編むにあたって中本さんに句を吟じてもらった。
「黒南風(くろはえ)や 金龍棲(す)むてふ 朱き城」
(湿った南風の吹く季節。金色の龍がすむという赤き城)
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
過去の記事はこちらから。
なかもと・きよし/1947年、竹富町生まれ。70年、名古屋大学建築学科卒業。生田勉都市建築研究室を経て、72年より㈱国建。80年、沖縄海洋博公園「おきなわ郷土村」の調査および設計に携わる。80~85年、サウジアラビア、リビアで油田労働者の街をつくるという計画のためサンフランシスコ常駐。86年、首里城復元事業発足、中心メンバーとして設計に関わる。90年~、㈱琉信ハウジング。2001年、中国浙江省長興県の都市開発コンペグランプリ。09年、NPO沖縄県建築設計サポートセンター設立。10年、NPO蒸暑地域住まいの研究会設立。10~14年、沖縄県建築士会会長を務めた。17年~現在、㈱宮平設計の顧問。
歴史的建造物の復元や海外での仕事
多分野に飛び込み関心広く
国建に入った当初は、構造設計を担当していたという中本清さん。ムーンビーチホテルの構造設計にも携わったという。そんな中本さんが歴史建造物の復元などに関わり始めたキッカケは、海洋博記念公園内の「おきなわ郷土村・おもろ植物園(以下、郷土村)」の設計だ。
「会社で真っ先に参加希望の手を挙げましたね。もともと古い建物の復元などを目指して働いていたわけではないけれど、他分野の専門の方々と共同しているうちにより歴史に興味を持つようになりました」
郷土村は海洋博閉幕後の跡地利用として企画された。「万葉集にうたわれている植物を集めた萬葉植物園のような沖縄の植物園を作ってはどうか。沖縄には『おもろさうし』という素晴らしい歌集がある」と、当時、皇太子だった平成天皇の提案を起点に、沖縄の集落風景も再現することとなった。おもろさうし研究者の外間守善さんや、集落調査研究者の仲松弥秀さん、歴史家の高良倉吉さんなどさまざまな専門家を交えて協議した。
「沖縄の集落構成にはルールがあります。その背景を学ぶうちに、こういった集落を支えていた琉球王府とは何だったのだろうかと関心が広がりました」
この仕事が終わった後、中本さんは米国に赴任した。「『誰か海外に行きたい人?』って聞かれて、ここでもすぐ手を挙げましたね」と笑う。アフリカ大陸地中海沿岸部のリビアで油田工場労働者の街をつくるという大がかりなプロジェクトだった。資材調達のため米国中を駆け回り、アラビア石油会社と交渉するなどグローバルな仕事だったという。
「仕事が一段落して沖縄に戻ってきたときに、ちょうど首里城再建のプロジェクトが始まったんですよ。『シタイヒャー!』(やったー!)って思ったね」
郷土村の経験が首里城に
平成の首里城再建で、設計の中心メンバーだった中本さんは、建築資材の大径木を探して台湾にも足を運んだ。また、郷土村の設計のとき、職人に聞き取りしながら書き留めていた沖縄特有の木組みや仕口などの知識も役にたったという。
とりわけ新資料として発見された、1768年の首里城改修時に作成された寸法入りの図面『寸法記』との巡り合いは関係者一同で喜んだ。「残念なことに2019年に正殿が焼失してしまったが、平成の復元の時に、高良倉吉さんたちと研さんして得た蓄積があるので、令和の復元は多くの方々の参加で実現できると信じています」と話す。
今後を担う人たちへの意見もうかがってみた。
「若い世代には(上の世代の良いところを)どんどん盗んでほしいですね。こちらが献立をつくって出すのを待つのではなく、自分から飛び込む気持ちが大事だと思います。僕も先代の方々に飛び込みましたから」と笑顔で語ってくれた。
海外での仕事や歴史建造物の復元、都市再開発など、通常の建築設計とは異なるような業務にも手を挙げ、さまざまな先人に学んだ中本さんらしい回答だ。挑戦する気概を学ばせていただいた。
おきなわ郷土村・おもろ植物園(1980年、本部町石川) 琉球弧の島々の伝統住居を再現した海洋博記念公園内の展示空間。郷土村部分は『神と村』などの著作がある、沖縄の民俗文化研究者・仲松弥秀さんが監修した。
貫木屋(ヌチジヤー)や穴屋(アナヤー)のような伝統木造の住居だけでなく、沖縄の集落構成として御嶽(ウタキ)を中心とした祈りのヒエラルキーも考慮して再現されているところも見どころ。来年を目標にリニューアルの計画があるとのこと。
おきなわ郷土村の神アサギ。祭祀(さいし)の中心となる祖霊神を招く施設。祖霊神が鎮座する御嶽のほど近くの広場に建ち、広場に面して村立てに関わる本家と祭祀を執り行うノロの家が建つ
本部の民家。穴屋と呼ばれるかやぶき屋根の一般的な住居。かやぶきと言ってもリュウキュウチクが使われることが多く、通常のカヤよりも丈夫とのこと
穴屋の壁は、竹で編まれた「チニブ(チヌブともいう)」によって通気性のよいつくりになっている。屋根を含め、建築素材として竹が上手に使われている
おもろ植物園。沖縄最古の歌謡集である『おもろさうし』にうたわれている植物が展示栽培されている
おもろ植物園内に、おもろと共に展示栽培されているリュウキュウチク。添えられたおもろは「与那嶺の大親/竹つぼに造ておちへ/按司襲いぎや/島討ちする矢柄」(おもろさうし第十九巻 1293)と、「竹」という言葉が使われている
首里城(1992年、那覇市首里金城町)
在りし日の首里城。2018年元旦行事の風景(本庄正之撮影)。中本清さんは平成の再建の時、建築設計の担当者の一人として尽力した
残念ながら2019年10月末に焼失してしまった首里城正殿跡を御庭(ウナー)から臨む。現在は被災した造作部分や基礎、及び古い基壇部分の遺構などが展示されている。2026年の再建を目指して準備が始められている
「郷土村計画のために仲松弥秀先生と一緒に沖縄各地の集落をまわったりしました。『通し御嶽』の見方とか教わりましたね。『沖縄の集落は移動するんだよ』とおっしゃってたのが印象深いです」と中本さん。
通し御嶽とは、集落が移動した時、旧集落の御嶽に向けて設ける拝所のこと。遥(よう)拝所とも呼ばれ、その向きをたどれば集落の変遷が分かるという。
中本さんは、今でもよく沖縄の集落を訪れる。月1回程度、同好の俳句会の人々と由緒ある場所を訪ねて句を詠む吟行をしており、累計で200回以上におよぶ。その様子をまとめた冊子は、地図や図版、解説まで添えられ、書籍化できるのではないかという内容だ=写真。
本記事を編むにあたって中本さんに句を吟じてもらった。
「黒南風(くろはえ)や 金龍棲(す)むてふ 朱き城」
(湿った南風の吹く季節。金色の龍がすむという赤き城)
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1858号・2021年8月13日紙面から掲載