建築
2021年6月11日更新
[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[6]| 建築研究室DAP主宰 真喜志好一さん(77)
沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士らに話を聞いてリポートする本連載。真喜志好一さんは、自然とのつながりを意識しながら、沖縄キリスト教短期大学やシュガーホール、佐喜眞美術館などを手掛けた。
真喜志好一さん(77)
まきし・よしかず/1943年、那覇市出身。68年、神戸大学大学院修士課程を修了し、神戸大学工学部建築学科助手に。72年11月から、沖縄開発庁沖縄総合事務局営繕課勤務。76年4月1日、建築研究室DAP設立。91年、沖縄キリスト教短期大学キャンパスが日本建築学会作品賞を受賞。
周辺環境と共生し、自然を生かす建築
計画は外部空間から
確か2001年頃だった。まだ大学生だった私は、インターンシップ生として真喜志好一さんの事務所を訪ねたことがある。設計事務所への初めての来訪だったので、緊張しながらも現場や図面、模型などを見せていただいたりした。その期間中に「ちょっと今から辺野古での会合に向かうから」と運転手を頼まれたこともあった。今回、事務所を訪ねるのは、それ以来になる。
真喜志さんは今でこそ建築家として著名だが当初は構造計画を専門にしていた。
「意匠設計の道に進みたい気持ちもあったが、デザインを学びたい先生に出会えなかった。だからまずは構造をしっかり学びたいと思った」という。
神戸大学工学部建築学科の助手として、そのまま研究職の道を進むことも考えられたが、真喜志さんは沖縄開発庁沖縄総合事務局営繕課職員として沖縄に戻った。「沖縄の本土復帰が決まると、海洋博のような派手なイベントに隠れるように無秩序な巨大開発による環境破壊などが予想されました。だから助手時代に『海洋博と沖縄開発を考えるシンポジウム』を沖縄で開いたりもしました。そういう活動をして沖縄を焚きつけておきながら、本土でのうのうと研究職を続けることに僕自身が耐えられなくなったのです」と語る。
幸せにする空間づくり
沖縄総合事務局に勤めながら、沖縄の環境を守る活動を続け、海洋博の閉幕を期に独立して設計事務所を始めた。「建築をつくるということは、人を幸せにするための空間づくりだと思っています。だから、人を不幸にする空間をつくってはいけないし、つくらせてもいけません」
建築設計業務を続ける一方で、石垣市の白保の海を守る活動や辺野古の軍事基地建設へ抗議する活動にも関わり続けた。
「そんなふうに人を幸せにする建築を意識して日常的に仕事しているものだから、建物を検討した後の余りとして外部空間があるようではいけないという考えです。建築が周辺環境と共生でき、自然を生かす役割を果たせるよう、まず敷地周辺とのつながりを意識して必要となる外部空間から先に計画します。建物の形は後から考えるということを続けました」と一連の建築のテーマを説明してくれた。
確かに、真喜志さんが設計で関わった建築はどれも外部空間が明確で、上下階からも建物の内外からも外部空間の自然を意識できる構成になっている。
「沖縄キリスト教短期大学が完成して半年ぐらいたって訪ねたとき、顔見知りの教授に新しいキャンパスで何か変わったことありますか、と尋ねました。すると『学生たちの空を見る時間が増えた』とおっしゃっていた。そのときは、うまくいったと思ったね」とほほ笑んだ。
私が佐喜眞美術館を訪れた際、佐喜眞道夫館長は「真喜志さんに設計を頼んでよかったと思ってます。やはり建築には哲学がないと!」と話していた。建築の背景に通底する首尾一貫したテーマと、その思想を生きようとする姿勢のすごみは、理解力に乏しい学生時代の私では気づくことができなかった。人と場所を、あらためて訪ねることの価値を実感できた。
沖縄キリスト教短期大学 現:沖縄キリスト教学院大学・沖縄キリスト教短期大学(1989年、西原町翁長) 現在地に移転前は首里城近くに所在していた。移転計画が発足したときに立案された基本構想には、心のセンター、知のセンター、ゆとりのセンターとなるキャンパスだと位置付けられており、これを参考に設計したという。
中庭を中心に、正面にはチャペルが建ち、周囲には回廊が巡らされている。広場を介して互いを意識しやすいキャンパスになっている。
かまぼこ型の屋根(ヴォールト)を交差させた「クロスヴォールト」が斜めにカットされている。それを回廊上に巡らせることで印象的な日陰空間を演出している
西原の高台に立地しているので、回廊からも中城湾の風景を見下ろすことができる
南城市文化センター・シュガーホール(1994年、南城市佐敷字佐敷)
サトウキビ畑の中に建つ音楽堂。地方都市が東京のコピーをし、その地方都市の周辺農村がさらにコピーをする当時の風潮にあらがった、沖縄のどこにもない音楽専用ホールを持つ地域文化センターが目指された
立体的に計画された野外広場空間。周りには、地域コミュニティー施設や南城市立図書館佐敷分館なども併設されている。通路上やそれらの施設内からも野外ステージや広場の様子をうかがえる
野外ステージ側からは、佐敷集落を抱護するクサティ森が見え、自然を意識することができる
佐喜眞美術館(1994年、宜野湾市上原)
美術館と佐喜眞家の亀甲墓に囲まれた広場。1996年には、小石に番号を振って積み上げる「石の声」というアートイベントに使われた。当時把握されていた沖縄戦戦没者数と同じ23万6095個の石の山が築かれたという
「美術館建設のために」と、米軍基地内の不動産管理部門と直接交渉し、返還された場所に建つ。中にはガマ(自然壕)をイメージした大きさの異なる三つの展示室が並ぶ
屋上には東シナ海を見渡せる展望台がある。通路は、慰霊の日の6月23日の日没方向に軸線が通るように計画されているほか、段数も6段+23段で、沖縄戦の悲劇と向き合えるようになっている
出身大学の神戸大学同期生には、建築家の故・毛綱毅曠(毛綱モン太)氏がいる。真喜志さんは助手時代、毛綱さんの代表作である「反住器」の構造計画に携わった。
「神戸大には西洋建築史を専門にしている向井正也先生がいらっしゃって、1970年前後の大学闘争のとき、工学部のキャンパスも封鎖されていたのだけど、向井先生の土曜日の自主講座だけは占拠している学生活動家たちも出入りを認めていました。その講座に出入りしていたのが向井先生の助手をしている毛綱毅曠さんで、その友人である渡辺豊和さん、安藤忠雄さん、そして僕なんかも出入りしてたわけですよ。この講座のメンバーから後の日本建築学会賞の受賞者を輩出したわけです。えらく密度の濃いゼミでしたね」と真喜志さんは当時を振り返る。
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1849号・2021年6月11日紙面から掲載