建築
2021年4月9日更新
フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[5]| ともかぜ振興会 会長 元ライン設計 代表 金城栄一さん(80)
沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士らに話を聞いてリポートする本連載。今回は、金城栄一さん。戦時中に奪われた故郷・大嶺集落への思いを胸に、那覇市金城の街づくりや、琉球セントラルビルなどを手掛けた。
ともかぜ振興会館の屋上に立つ金城栄一さん。旧大嶺集落では赤瓦屋根も多かったことから、同館屋上には当時のイメージを想起させる東屋が配置されている
元ライン設計 代表
金城栄一さん(80)
きんじょう・えいいち/1941年、旧小禄村字大嶺出身。1960年、沖縄工業高校卒業。上原啓建築設計事務所。1961年、我那覇設計事務所。1965年、栄一建築設計事務所設立。1982年、(株)沖縄開発計画に在籍。1984年、ライン設計設立。1995年より旧軍飛行場用地問題解決のために活動。
ビルから街まで開拓の前線で活躍
郷愁の念で結びつき強く
金城栄一さんは旧小禄村字大嶺の出身だ。
現在の那覇空港西端の大嶺岬周辺に、その集落はあった。しかし、戦況が悪化した1943年、海軍小禄飛行場用地拡張のための強制接収に遭う。戦後は米軍基地となり、故郷の地を踏むことはかなわなかった。
小禄は土地の8割近くを基地に占領されてしまったので、旧小禄村の住人は高良・宇栄原の一部の地域に住むことを余儀なくされる。戦後に引き揚げてきた地主とのトラブルも絶えなくなったことから、1953年には大嶺を含めた五つの字で新部落期成会を発足し、民間主導による土地区画整理事業を始めた。
当時の金城さんは沖縄工業高校の学生だった。「新部落建設などもあったから住宅設計の仕事はあふれていたよ。中学生の頃には知人の設計事務所に出入りしていたものだから、図面作成に携わるのも早かった。建築基準法も整備されて建築確認申請が必要になったものだから、大工さんが墨で描いた板図を持ってきて依頼してくるわけ。高校の設計製図の授業中にアルバイトで申請用の基本図を描いてましたよ」と金城さんは振り返る。
新部落建設後、旧大嶺から宇栄原に移された御嶽。旧集落に御願(うがん)を通す「通し御嶽」も、旧大嶺の方角を向いて設けられている
先輩に恥じない町に
設計事務所を始めてからはどうだったろうか。
「もし自分に誇れるものがあるとしたら、琉球セントラルビル、小禄金城のまちづくり、ともかぜ振興会館の三つですね」と語る。
国際通り沿いにある琉球セントラルビルは、沖縄開発計画に在籍中に関わった。計画当時は路地をはさんで隣に山形屋デパートが建っていた。地下と空中歩廊でビル同士をつなぐために、行政機関との交渉や先行事例調査などに苦心したという。
次に小禄金城のまちづくり。小禄の米軍基地用地が返還されることになった1980年、土地区画整理に際し、行政、地主会、建築士会の三者は小禄金城地区まちづくり協議会を結成した。金城さんはここで、建築士会側の代表として尽力する。
当時の那覇市教育長を務めた嘉手納是敏さんには「金城さん、あなたの先輩方は区画整理という言葉もない頃に新部落建設という立派な事業を成し遂げたんだよ。だから、その先輩方に恥じないような町にしないと」と激励された。新部落建設のときに理事を務めた地主会会長の赤嶺一男さんと一緒になって、金城さんは利害関係者を説得した。そのときの説得力の背景には、新部落建設のときの団結の歴史があった。
最後にともかぜ振興会館。金城さんは、戦前、日本軍に強制接収された旧字大嶺の補償問題についても、国を相手取り大嶺地主会を代表して交渉した。その長い活動の成果のひとつが小禄金城公園横にあるともかぜ振興会館だ。「大嶺の先人たちが生きた証しを伝えたい。建物の竣工で終わりじゃなくて、私たちにとっての問題解決はまだ道半ば」と金城さんは笑う。
ともかぜ振興会館の設計・監理に関わった私は、小禄の人々の結束力の強さと粘り強さ、そして先人を尊重する心からさまざまな学びをいただいた。
琉球セントラルビル(1984年、那覇市牧志) 金城栄一さんが㈱沖縄開発計画に在籍時代に設計を担当した。立体的な半戸外空間が設けられていて、上層にいくほど吹き抜けが大きくなっている。樹木をイメージして設計したという。建設当初、隣にあった山形屋デパートと空中歩廊でつながっていたが、同デパートが建て替えられた現在は見られなくなった。
吹き抜けは上層部ほど広くなっている。建物正面では、レリーフの刻まれた梁(はり)の長さによって広がりが表現されている
広く確保された半戸外部分に、吹き抜けを介して奥まで光が届いている
琉球セントラルビルと山形屋デパートをつなぐ空中歩廊が見える(1997年、本庄正之氏撮影)新部落建設顕彰碑(1994年、那覇市田原)
金城栄一さんによる設計で、新部落建設期成会会長を務めた長嶺秋夫寿像が建立されている。顕彰碑の委員の名前には、小禄金城地区まちづくりで地主会会長を務めた赤嶺一男さんの名前も刻まれている。田原の村ガーであった井戸・フチンミガーも残されている
那覇市ともかぜ振興会館(2020年、那覇市金城)
旧軍飛行場用地問題解決のための国からの慰謝として計画された地域振興施設。金城栄一さんは大嶺地主会代表として関わり続けた。設計はアトリエ・ノアの本庄正之氏が担当。展示室はまだ準備中だが、ホールや会議室、トレーニングルームなどは供用を開始している。
ともかぜ振興会館の準備中の展示室にて、展示を待つ資料たち
首里大中町にあった旧県立博物館(2005年撮影)
金城さんは旧沖縄県立博物館の設計で知られる我那覇建築設計事務所の最初のスタッフだ。「ちょうど設計事務所を立ち上げる予定だった我那覇昇さんに呼ばれて、銀行からの借り入れに一緒に立ち会った。そのとき『沖縄の設計事務所のトップ5に入ろうね』と我那覇さんに言われたのを今でも覚えていますよ」という。
県立博物館の設計コンペでは、立面図を担当した。
旧沖縄県立博物館は沖縄初の設計コンペ作品として有名なのだが、その後米国民政府により大幅に設計変更されたこともあり提案図書は公にされていない。どこかに残っていないものだろうか。
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1840号・2021年4月9日紙面から掲載