建築
2021年3月12日更新
フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[4]| 仲座久雄建築設計事務所 仲座久雄さん(1904〜62)
沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士らに話を聞いてリポートする本連載。今回は、戦前から戦後にかけて沖縄建築をけん引してきた故・仲座久雄さんについて、息子の仲座巖さんの話をもとに紹介する。(文・写真 普久原朝充)
當間和裁教習所の模型を見つめる仲座久雄さん(1954年)。同教習所は、沖縄織物の柄から花ブロックの着想を得るきっかけになった建物で、施工時に花ブロックが使われた(仲座巖さん提供)
仲座久雄さん(1904〜62)
なかざ・ひさお/1904年、中城村字津覇生まれ。21年から大阪で暮らし、23年、大阪市北区関西工學校建築科入学、賀川豊彦に師事。33年、帰郷。36年、守礼門修理工事。45年、6月沖縄戦終戦、11月には規格住宅を設計。49年、仲座久雄建築設計事務所設立。50年、琉球政府建築課長。55年、沖縄建築士会設立、初代〜第5代会長を務める。56年、仲座久雄建築設計事務所ビル竣工及び移転。62年、逝去。
戦後の復興住宅「規格家」や「花ブロック」を考案
建築文化の歴史をつなぐ
仲座久雄さんといえば、沖縄建築を知る上で欠かせない最重要人物だ。戦後の1946年から49年にかけて、復興住宅として7万3500戸建設された「規格家(キカクヤー)」の設計者として知られる。
また、いまや沖縄らしさの象徴の一つでもある「花ブロック」の考案者としても有名で、沖縄建築士会初代会長として建築士の職能を社会に定着させることにも尽力した。
現存する仲座建築は少ないが、例えば晩年に手掛けた再建末日聖徒イエス・キリスト教会は当時の面影もそのままに残っている。
さらに、書籍『仲座久雄 その文化財保護活動1936年〜1962年』によると、戦後の文化財保護においても多大な貢献があったという。本書を読むと、現在私たちが見ている風景の中には、さまざまな議論と、先人たちの運動によって勝ち取られた風景があることを実感できる。そこで、私はその本の編者でもある、仲座久雄さんの御子息・仲座巖さん(82)を訪ねた。
仲座巖さん。父・久雄さんについて調査し、整理をしている
守礼門修復で先人に感銘
「父が、琉球建築とはどういうものか先人たちの気骨を会得した経緯は、戦前の新聞連載『郷土の国宝建築』を読むと分かる。その連載に至ったきっかけは、戦前の守礼門修理工事に工事主任として関わったことなんです」と仲座巖さんは話す。
大正13年(1924年)、琉球の美術品を研究する鎌倉芳太郎と、東京帝国大学教授の伊東忠太が、戦前の首里城正殿の解体を阻止し、修復保存への道を開いた。そんな戦前の沖縄で、国宝指定を受けた建造物は23件。そのうち修理工事が実現したのは首里城正殿と守礼門だけだ。
守礼門修理工事において、工事監督である文科省技手の森政三の指導の下、仲座久雄さんは古建築の調査法や修理に臨む態度などを学んだ。『琉球王朝時代の人々は、中継貿易で海を越えた先の文化を取り入れつつも全くの模倣をせず自らのものとしている』。そのことに仲座さんは心打たれ、他の国宝建築修繕も大衆に訴えた。1944年の朝日新聞では“郷土建築史の研究家”と称されるほどだったという。その情熱を傾けた国宝建造物を戦争で全て失うことになる。
◆新聞連載で郷土建築守る◆
1943年4月の沖縄新報に掲載された「郷土の国宝建築」
仲座久雄さんが新聞で『郷土の国宝建築』を執筆するに至った動機が当時の紙面=上写真=にある。
「最後に浅学非才の若輩があえて筆を執った一つは、郷土国宝建築物が荒廃の極みにあり、なんら保存修理の道が見いだし得ないのを遺憾とし一般に関心を深くしてもらいたいためである」
「その二は、古代土木建築技術とその精神の偉大なることに感激したからである」
「その三は、郷土の誇りとして、舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁と為した、先祖の進取的気迫と、流入したあらゆる文化が、模倣に堕せずよく消化した包容力の大きさと、創造力の偉大さに心打たれたからである」(※適宜、現代表記に置き換えている)。
再建末日聖徒イエス・キリスト教会|現:復元イエス・キリスト教会/シオン幼稚園(1962年、宜野湾市喜友名)
切妻状の屋根にそびえる十字架が印象的な教会。十字架の周りや大きな開口部の前には花ブロックがあしらわれている。ハイサイドライトを設けるなど、光を取り入れるさまざまな工夫もされている。
再建末日聖徒イエス・キリスト教会竣工時の姿(シオン幼稚園の関根園長提供)
再建末日聖徒イエス・キリスト教会の図面を眺める根路銘安弘さん
図面の「花ブロック(FLOWER LIKE BLOCK)」と書かれた場所を指す根路銘さん。教会関係者にDE(米陸軍沖縄地区工兵隊)に属した信者がおり、英訳語を確認して図面を仕上げたという
當間和裁教習所(1954年、那覇市松尾)
戦後初の公選那覇市長・當間重民氏の死後、妻の静子夫人によって建てられた。当初、手すりは棒状のプレカストコンクリートにより設計されていたが、施工段階で花ブロックが導入された記念すべき最初の建物(仲座巖さん提供)
仲座久雄建築設計事務所ビル(1956年、那覇市松尾)
3種類の花ブロックを使いさまざまなパターンを表現している。屋上の庇(ひさし)にも花ブロックが使われている。花ブロックは、1954年の設計図で「旭ブロック会社製プレカストコンクリート」と表記されていた(仲座巖さん提供)
那覇バプテスト教会(1957年、那覇市壺川)
花ブロックを固定する端部を最小限にした斬新な出窓の影が印象的だ(仲座巖さん提供)
社会に貢献する博愛の心
戦後の仲座久雄さんの活躍が華々しく目立つこともあり、これまで戦前の彼の活動に対して私は不見識だった。戦後の文化財保護活動への情熱の源泉は、既に戦前からあったのだ。
他にも規格家や農家住宅のモデル設計などの公共的、献身的な活動の背景には、大阪での学生時代に師事していた賀川豊彦(※)の影響もあるという。
「要するに社会に貢献するという博愛精神だね。文化財保護などに対してパブリックな意識を持っていた。戦前・戦中・戦後と一貫して建築文化に携わる仕事をしている。その時代時代において社会に求められ、重要な仕事を遂行することができるというのは誰にでもできることじゃない。だから、父のやった仕事というのはやはりすごいなと思う」と巖さんは振り返る。
郷土と建築を愛し、泡盛を愛した仲座久雄さん。戦争で分断された歴史を後世につないだ先達に、私も心打たれたのだった。
※賀川豊彦(1880〜1960):貧民救済のために神戸のスラムに住み伝道した牧師。社会活動家、労働組合運動や農業協同組合運動などの源流となる活動を導いた。
仲座久雄展で展示されている規格家の模型
現在、中城村の護佐丸歴史資料図書館で「仲座久雄展」が催されている。規格家の模型や初期の花ブロック、戦後の守礼門復元工事の様子が分かるカラー映像などが展示されており、仲座久雄の足跡をたどることができる。3月29日まで。入場無料。毎週火曜日、第3木曜日は休館。
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1836号・2021年3月12日紙面から掲載