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2022年5月13日更新

強度と経済性で広く浸透|復帰50年で振り返るコンクリートと沖縄①

復帰50年の節目に、沖縄の住まいやまちの発展に貢献してきた「コンクリート」について多角的に考える「コンクリートと沖縄」をスタート。今後、継続して掲載する。初回は沖縄の住まいづくりに欠かせないコンクリート住宅の建築技術が根付いた歴史と、復帰当時の住まいづくりについて。琉球大学名誉教授で亜熱帯地域の建築を研究する小倉暢之(のぶゆき)さんと、復帰前から設計活動を行ってきた根路銘設計代表取締役会長の根路銘安弘さんに話を聞いた。




小倉暢之さん 琉球大学名誉教授
小倉暢之さん 琉球大学名誉教授
おぐら・のぶゆき/1954年、島根県生まれ。78年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。79年、琉球大学理工学部土木工学科助手。助教授を経て2007年教授へ。19年、退職。名誉教授へ。一級建築士。学術博士。

根路銘安弘さん 根路銘設計代表取締役会長
根路銘安弘さん 根路銘設計代表取締役会長
ねろめ・やすひろ/1939年、大宜味村出身。58年、仲座久雄建築設計事務所へ。63年から㈾我那覇設計事務所。70年、根路銘建設設計事務所設立。93年、現社名に。2002年、県建築士事務所協会会長。05年、黄綬褒章受章。12年、現職へ。
 

軍工事で施工技術を習得

現在、県内の新築住宅の大半を占めるコンクリート住宅は、沖縄にどのように根付いたのか? そこには建築技術の習得、経済性、台風やシロアリに対する強度など、幾つかのポイントがある。

戦後の荒廃の中、沖縄民政府により住民に供給されたのはツーバイフォー工法の木造規格住宅。小倉暢之さんは「計画段階では、壁の枠組みや屋根のトラス(三角形の構造)は工場で事前に造られ、現場で簡単に組み立てられるようになっていた。ただ、実際には、ありあわせの材料が用いられたものも多く、しっかりとした基礎を造って建てているわけではないから台風には耐えられない。おまけにシロアリ対策も不十分だったので被害にも遭った」と説明。実際、7万5千戸建てられた規格住宅は、1940年代後半に立て続けに襲来した大型台風で甚大な被害を受けることに。当時、木造で建設が進められていた基地内の住宅施設なども例外ではなく「同様に大きな被害を受けた」。

そこで「より強固で長持ちする建物を求め」米軍が導入したのが、コンクリートを使った建築技術だ。「基地内のさまざまな施設や住宅を米国本土と同様の水準で建設。工事には県内の土木関係者も参加したことで、コンクリート建築の設計・施工技術が米軍技術者から沖縄の職人へと伝わった」


50年代には融資制度も

そうして得たコンクリート建築の技術を、民間住宅にも普及させようとする動きが出始めたのが50年代だ。

「当時、琉球政府の課長だった仲座久雄さんが、コンクリート造住宅を優遇した融資制度を提案。民間住宅が、コンクリート住宅へと移行する追い風になった」と小倉さん。ちなみに初期に建てられたのは、壁はコンクリートブロックで、屋根は木造トラスを組み合わせた混構造だ。

「台風やシロアリに強いだけでなく、デザイン・構造的にも単純化されたコンクリート住宅は量産しやすく、当時の建築需要に応えるすべとしては最適だった。民間でコンクリートブロックが生産できるようになったことで、より身近なものになった」

58年に入ると、基地外にも米軍発注による軍人軍属のためのコンクリート住宅建築が民間事業者によって進められた。壁はコンクリートブロック、屋根はコンクリートスラブのフラットルーフを用いた、いわゆる「外人住宅」だ。「外人住宅は、米軍人・軍属が借り手となり安定した家賃収入が見込めることから、各地で民間主導の建築が相次いだ」。これによって多くの建設業者が携わり、結果としてコンクリート技術の普及につながった。

60年代半ばから普及したラーメン構造のコンクリート住宅の形態を示した根路銘さんのスケッチ
60年代半ばから普及したラーメン構造のコンクリート住宅の形態を示した根路銘さんのスケッチ


コスト圧縮で7割がブロック壁

復帰当時のコンクリート建築や住まいづくりはどのようなものだったのか。

一級建築士の根路銘安弘さん(83)は、1950年代、60年代と県内の設計事務所でコンクリート建築に携わり、70年に独立。以来、200棟以上のコンクリート住宅を手掛けてきた。「私が設計事務所で働いていた50年代には既に新築のほとんどがコンクリート住宅。独立してからは限られた予算の中、いかにコンクリ―トの強度を生かしつつ、暑さ対策や施主のニーズに応えるか、常に考えていた」

復帰当時は、柱と梁で建物を支えるラーメン構造が主流。「暑い沖縄の住宅には通風のための窓が欠かせない。ラーメン構造は、壁で建物を支える壁式構造に比べ大きな窓が取りやすい。暑さ対策では、深い庇で覆った大きな窓を重視。西に水回りを設けるなど間取りでも工夫した」と振り返る。

当時は、住宅を建てるのがやっとの時代。「建設コスト圧縮のためコンクリート住宅の7割が壁にコンクリートブロックを使っていた。コンクリートブロックは一平方㍍あたり5000円。一方、同様の壁をコンクリート流し込みで作る場合、コンクリートと仮枠だけで8500円。これに鉄筋代、工期にかかる人件費も追加で必要になるからね」。現在のように壁までコンクリートを流し込む建て方がはやりだしたのは「復帰後、しばらく経ってからだった」


子ども部屋は人数分

復帰後、県内建築業界と琉球大学との共同で、沖縄の理想の住まいについて一般市民にアンケートを実施したこともあったといい、「居間と和室と子供の人数分の部屋を要望する声が多かった」と根路銘さん。今よりも世帯人数が多かったため、「敷地とのかねあいもあり2階建てや時に3階建てになることも。将来を見据えバルコニーやピロティなど余白を作ったりもした」。

根路銘さんは自身のコンクリートとの関わりについて振り返り、語る。「私が、建築の仕事についたころ、台風にも耐えうる丈夫な住宅をどうしたら作れるかという勉強会が公民問わず、開かれた。主導したのは基地内の施設建設を統括する米陸軍沖縄地区工兵隊(通称・DE)。コンクリートの調合、硬さの目安となるスランプ値、流し込み、練り方、施工などコンクリート技術について私も多くのことを学んだ」

現在も現役で活動する根路銘さん。今後もコンクリートの施工技術は進化が予測されるが、いつの時代もその土地の気候風土に適した住まいづくりが最も大切だと考えている。



1958年に外人住宅の建築開始
1958年に外人住宅の建築開始
1958年から建築され始めた「外人住宅」。写真は現在の嘉手納町水釜に建てられた外人住宅街「比謝川ハウジング」。小倉さんは「外人住宅はコンクリートブロックの壁で建物を支えた壁式構造。量産しやすいように間取りは単純化されていた」と説明。(写真:『沖縄の外人住宅に関する研究-その歴史的展開及び計画内容を中心として-』より)


初期の屋根は木造瓦ぶき
初期の屋根は木造瓦ぶき
1960年代に撮影された、初期のコンクリート住宅。小倉さんは初期のコンクリート住宅について「構造は、室内外の壁にはコンクリートブロックが用いられ、内装・屋根は木造で、赤瓦もしくはセメント瓦葺きであった」と説明。(写真:『戦後沖縄の近代建築における地域性の表出』より)


復帰後は部屋数求め2~3階建てが増 深い庇と大開口で通風&暑さ対策
1974年に根路銘さんが設計した住宅の一例。鉄筋の柱・梁で建物を支え、壁はコンクリートブロックに。3階建てで部屋数を確保した(写真は根路銘さん提供)
1974年に根路銘さんが設計した住宅の一例。鉄筋の柱・梁で建物を支え、壁はコンクリートブロックに。3階建てで部屋数を確保した(写真は根路銘さん提供)

1978年に根路銘さんが設計したコンクリート住宅の一例(上写真)。道路に面する西側の庇は階段状にし、緑化(下写真)できるようにすることで、西日が直接室内に入るのを防ぎつつ断熱効果を高めた。外壁には県産のれんがタイルを張り、デザイン性も考慮(写真は根路銘さん提供)1978年に根路銘さんが設計したコンクリート住宅の一例(上写真)。道路に面する西側の庇は階段状にし、緑化(下写真)できるようにすることで、西日が直接室内に入るのを防ぎつつ断熱効果を高めた。外壁には県産のれんがタイルを張り、デザイン性も考慮(写真は根路銘さん提供)1978年に根路銘さんが設計したコンクリート住宅の一例(上写真)。道路に面する西側の庇は階段状にし、緑化(下写真)できるようにすることで、西日が直接室内に入るのを防ぎつつ断熱効果を高めた。外壁には県産のれんがタイルを張り、デザイン性も考慮(写真は根路銘さん提供)




 Topic  琉球セメント(株)に聞いた復帰当時のセメント事情

初期製品は「色薄い」と苦情 品質認められシェア5割に

屋部工場にあるセメントの焼成設備の一部。右手前に延びるのが直径3.8m、長さ55mの回転窯(ロータリーキルン)。1450度の高温で原料を焼き上げる(琉球セメント株式会社提供)
屋部工場にあるセメントの焼成設備の一部。右手前に延びるのが直径3.8m、長さ55mの回転窯(ロータリーキルン)。1450度の高温で原料を焼き上げる(琉球セメント株式会社提供)

「住宅やホテルなどの一般建築から土木・港湾工事まで含め、現在、県民一人当たりのセメント需要は本土の約2倍。狭い沖縄で産業としてここまで発展を遂げられたのは、立ち上げに関わった先人たちの先見の明と努力のたまもの」と、琉球セメント(株)の営業部課長代理の金城孝幸さん。

コンクリートの材料として欠かせないセメントの県内唯一の製造会社として同社が設立されたのは1959年のこと。総務部課長の宮城幸一さんは、「セメント製造には原料の採掘から粉砕、焼成(しょうせい)、出荷まで大がかりな設備が必要で装置産業と呼ばれている。石灰石や粘土、ケイ石をはじめとする原料すべてが県内で調達できることから、『県経済を担う主工業に』と関係者が奔走。米国のセメント会社の資本を導入し、64年に屋部工場が完成した」と説明する。

翌年から出荷を開始したが、既に本土大手メーカー数社が沖縄に進出していたことに加え、同社の初期の製品は「色が薄い」と苦情が寄せられ、苦労したとも。「従来品のネズミ色に比べて色が薄く、黄色みがかっていたことから、品質に関係があるように受け取られたよう」と金城さん。そこで米陸軍沖縄地区工兵隊と琉球工業研究指導所に品質検査を依頼したところ、国際市場で通用するとの結果に。「営業部員たちも自信を回復。『軍での試験結果が優秀というのなら間違いはあるまい』と大型需要が増え、1968年に約20万㌧だった出荷量は復帰の年には倍以上の約42万㌧、県内シェア5割以上を占めるまでとなった」。その後は海洋博需要などでさらなる本土メーカーの進出もあり、出荷量、シェア共に多少減りはしたものの、2019年の実績で出荷量35万6千㌧、シェア3分の1を誇る。

現在はSDGsの観点からも地元に貢献できるよう取り組みに力を入れているとも。「セメント工場は究極のリサイクル工場と言われ、県内で排出される廃棄物は原燃料の代わりになる。例えば建築廃材や廃プラスチックなどは熱エネルギーとして、また名護市や浦添市の焼却(主)灰は原料としてセメント製造過程で再利用している」と話した。


編集/市森知
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1897号・2022年5月13日紙面から掲載

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