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2020年7月24日更新
孫連れて行きたくなる 学ぶ仕掛けのある城に|私たちの首里城[4]
首里で生まれ育ち、首里まちづくり研究会の会員でもある新垣伝さんに首里城に対する思いを寄せてもらった。
文/新垣伝さん(新垣養蜂園代表、首里まちづくり研究会顧問)
孫連れて行きたくなる 学ぶ仕掛けのある城に|私たちの首里城[4]
執筆者/新垣養蜂園代表、首里まちづくり研究会会員 新垣 伝さん
首里城開園時、祖父が息子の叔父と写真を撮りに行ったときの様子。中央にいるのが祖父。1918年生まれの祖父が生きていれば何を思うのか考えさせられます
私は幼い頃から首里に住んできました。
1992年に首里城公園が開園し、それまで私を外へ連れ出すこともなかった祖父が急に、当時9歳(小3年)の私を引き連れて首里城を訪れたことを覚えています。その当時は何のことかも分からず、首里城へ連れていかれ、「なぜこんなに人が多いのか」「写真を撮る人が多い」とか、首里城を目の当たりにして「城が赤い!」という印象を持ったことを鮮明に覚えています。城といえば、本土風の城をイメージしていたので驚きました。これが私の正直な、首里城の第一印象です。
そして昨年、首里城は焼失しました。焼失と共に亡くなった祖父のことが思い出され、「なぜ祖父は孫を連れてまで行きたかったのか」「その理由はどのようなものであったのか」と考えさせられています。
今にして思うと、琉球王朝の歴史や首里城再建に向けて動いていた当時の息遣いを感じてほしかったのではないかと想像しています。またそれ以上に、戦争を生き延び、首里城の再建を目の当たりにした祖父には、私の計り知れない感情があったのだと感じています。
琉球学ぶ始まりの地に
首里城正殿がなくなってしまって、改めて首里のことを学びたいと考えるようになりました。
私は焼失前から、NPO法人「首里まちづくり研究会(※)」に所属しています。活動を通して、首里には450年続いた王府があり、憩いの場として龍潭を整備したことや王朝時代に泡盛は首里でしか造れなかったこと、泡盛を造るための稲穂を干すための石垣が残っていることなど、とても興味深い歴史や文化があることを少しずつ学んできました。今では首里のまちを歩き、史跡、旧跡を見るたびに、その当時の人々の息遣いや情景、コミュニティーの様子が目に浮かび、素晴らしいまちだったことが分かるようになりました。
首里城はこれから再建に向けて動いていきます。個人的には首里城が、沖縄の歴史やまち歩き、沖縄の各地域と王朝のつながりなどを知る文化発信拠点であり、沖縄県民が琉球の歴史や文化を学ぶためのスタート地点であってほしいと願っています。
そして首里城を中心とする首里のまち一帯が、地域活性化の拠点として、訪れる方々が楽しみながら琉球の歴史を学べる仕掛けのある場所になってほしい。
私にとって首里城は、祖父と同じ「孫を連れて行きたくなる場所」であってほしい。
※先人の叡智(えいち)と努力にならい「平和で美しく、賑(にぎ)わいと歴史が薫(かお)る、風格ある文化都市づくり」のさらなる広がりを目指して首里のまちづくりに関する事業や活動を行う団体。通称・すいまち研。
執筆者
あらかき・つとお/1983年生まれ。養蜂家歴10年。県のSDGsパートナーに選定され、持続可能な社会づくりをミツバチの生態を知ることで発信したいと活動。食糧自給率の低い日本の現状改善に向け「食べられる植栽」を提案。
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1803号・2020年7月24日紙面から掲載