建築
2022年3月11日更新
[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[13]|琉球大学名誉教授 小倉 暢之さん(68)
本連載は、沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士などに話を聞きリポートする。今回は琉球大学名誉教授の小倉暢之さん。普久原さんの恩師であり、アフリカや東南アジアといった熱帯・亜熱帯地域の近代建築、沖縄の外人住宅などをテーマに研究を続けてきた。
琉球大学名誉教授
小倉 暢之さん(68)
おぐら・のぶゆき/1954年、島根県生まれ。78年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。同年5月、琉球大学理工学部土木工学科助手。79年、建設工学科助手。84年、ロンドン大学バートレット校開発計画部(DPU)。85年、アフリカ視察。88年、博士号の学位取得(東京藝術大学)。89年、助教授。小倉暢之研究室発足。98年〜2000年、フィリピン研究。07年、教授。19年、退職。名誉教授。一級建築士。
熱帯・亜熱帯の近代建築や沖縄の外人住宅を研究
外と内からの視点で追究
やはり大学でお世話になった小倉暢之名誉教授にも再度話を伺わないといけないな、という思いが私にはずっと残っていた。あまり出来のよい学生ではなかったので、社会人になってから先達の仕事の恩恵を知ることになったからだ。
小倉先生は、1978年、東京藝術大学大学院の修士課程を修了したその年に、琉球大学に設立されたばかりの工学部建設工学科に助手として赴任された。
沖縄赴任のきっかけは、戦後の小住宅の設計等で著名な清家清先生に声を掛けられたことだった。清家先生は沖縄とは少なからぬ縁があり、集中講義等で訪れたりしていたそうだ。
大学での職務を続けるうえで博士号の学位を得るのは大変なハードルだ。テーマ設定が肝心で、誰も知らない価値ある研究成果が求められる。
小倉先生は、英国における近代建築家マックスウェル・フライの記した「Tropical architecture in the humid zone(トロピカル・アーキテクチャー・イン・ザ・ヒューミッド・ゾーン)」という書物に琉大図書館で出合い、アフリカのような熱帯地域で近代建築がどのように受容されたのかをテーマとした。
意外なことにアフリカの近代建築についての文献の多くは、アフリカではなく、当時の宗主国であるイギリスに残っていたそうだ。イギリスでの文献研究後には、留学先の人的ネットワークの支援を得てケニアやナイジェリアなどを渡り歩いて博士論文を仕上げた。その後も、フィリピンやタイなどの亜熱帯地域の研究を続けた。
「アフリカでもフィリピンでも伝統的な文化というものがあるんです。近代建築というのは、そういう文化を単純形態にそぎ落とすデザインでもありますからね。その変化に対する迎合も反発もあるわけですよ。アイデンティティーというのは永遠のテーマですね」と語る。
あこがれの外人住宅
小倉先生の研究には沖縄を対象にしたものもさまざまにある。とりわけ著名なのは「沖縄の外人住宅に関する研究」という論文だろう。雑誌などの外人住宅特集の多くで参照されており、私の関わった「沖縄島建築」でも大いに参照させていただいた。
戦後の米軍属家族向けの住宅は基地内だけでは建設が間に合わなかったため、民間により基地外にも多くの住戸が建設された。そのとき、コンクリートブロック造で、庭付き平屋での米軍属の居住スタイルは、当時の沖縄の人々に憧れのまなざしで受け止められた。
その建物の多くが現在も残り改修され住みこなされている。「当時は、まだ外人住宅の設計や工事に関わった方々の多くがご健在でしたからね。当事者の話を直接伺える最後の機会だったと思います」と懐かしむ。
◆ ◇ ◆
「沖縄を知るためには、やはり外から見るというのも大事です。外から俯瞰的に沖縄を見ていくと沖縄の特色も分かる。いろいろ研究テーマを探していくときは、外側を見て内側を見て、と考えていくと面白いですよ」。グローバルな視点で考えることの大切さを教えていただいた。
熱帯・亜熱帯地域の近代建築 1992年発刊の小倉暢之先生の著作『建築探訪6 アフリカの住宅』(丸善)。博士論文でのアフリカの近代建築のテーマから派生して、土着の住居なども紹介されている
『アフリカの住宅』の1ページ。「あとがき」では、風俗習慣の異なる地域での研究目的での写真撮影の苦労について記されている
マックスウェル・フライとジェーン・ドリューの設計による、ナイジェリアのイバダン大学図書館。小倉先生が研究テーマにしたアフリカの近代建築例として挙げた。熱帯地域での日射を軽減する縦ルーバーやスクリーン・ブロックなど、沖縄の建築と共通する部分が多い(小倉暢之氏撮影)
フィリピン国立迎賓館(ココナツパレス)。ココナツヤシが素材として内外装に用いられ、開口部等には伝統様式が取り入れられている。米国の影響で近代建築を取り入れたフィリピンも、次第に地域性の表現がテーマとなった(小倉暢之氏撮影)
沖縄の外人住宅
フェンスの向こう側に見えるゆとりある基地内米軍属家族向け住戸。1960年代の基地内人口増加により、基地の外にも住戸建設するようになった
浦添市港川ステイツサイドタウン。港川の外人住宅エリアは、建物が飲食店や雑貨店に転用され、オシャレスポットになっている
玄関や窓枠などの木製の造作や「NO 24」のように住戸番号跡が残っていることが見てとれる外人住宅のファサード(外観)
2000年代の沖縄ブームでは外人住宅が再評価され、さまざまな媒体で特集が組まれた。写真家の岡本尚文さんによる写真集『沖縄01外人住宅OFF BASE U.S. FAMILY HOUSING』(ライフ・ゴーズ・オン)=左端=では、小倉先生による解説文も寄せられている
1950年代末から60年代にかけて建設された外人住宅群は、米軍統治時代の沖縄を象徴した風景だ。部隊転入により増加する基地人口の受け皿として多くが建設される過程で、沖縄における建設技術にも影響を及ぼした。
「戦後の規格住宅の7万3500戸にしても、外人住宅の1万2千戸にしても、限られた資材と技術で需要に対して見事に応えていますからね。それは素晴らしい能力だったと思いますよ。要するに、決められたレシピでなければ料理ができないというのではなく、あり合わせのものを使っておいしい料理ができればいいじゃないかということですね。当時の方々の創意工夫の力とバイタリティーは素晴らしいと思いますよ。現在とは違った躍動感がありますよね」と小倉先生は語ってくれた。
地球儀上でイギリスと東アフリカのケニアを指さしながら説明してくれる小倉先生
退任パーティーのときの写真。左から普久原、小倉先生、美左夫人、琉大同期の伊東伸悠氏
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1888号・2022年3月11日紙面から掲載