建築
2022年4月8日更新
[沖縄]フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[14]|自習編・那覇のゲニウス・ロキ(地霊)
一級建築士である普久原朝充さんが先輩建築士に話を聞き、沖縄建築を学びなおす本連載。今回は自習編として、那覇の地形から浮かび上がる、土地の個性「ゲニウス・ロキ」についてまとめた。
那覇のゲニウス・ロキ(地霊)
ゲニウス・ロキとは、土地柄、あるいは、その場所特有の個性を意味する。「ゲニウス・ロキ(Genius Loci)」はラテン語で、もともとは古代ローマ人たちが土地に宿る精霊を指してそう呼んでいた。訳語が「地霊」となる。その土地に根ざした建築を考えたいときの一つのキーワードとなる。
那覇の地霊を呼び覚ますために調整した微地形地図。微地形地図とは、数値標高モデル(DEM)と呼ばれる地表面の標高データを基にして、標高ごとに色分け表現した色別標高図の俗称。従来の地形図より立体的に把握しやすく、より細かい傾斜の様子が表現できる。今回は標高の低い部分を黒、高い部分を白に設定している。
琉球王朝時代の那覇の海岸線を推定した地図。微地形地図の白い特徴点とピタリと重なり、浮島だった那覇の様子も分かる。名嘉山光子(国吉光子)「文献より見た那覇付近の古海岸線」(『琉大地理第6号』1967年12月版所収)を参照のうえ、普久原作成
参考にした本
鈴木博之著『東京の地霊』(ちくま学芸文庫)では、地霊を知るための注意点が丁寧に解説されている。一部、引用すると「(前略)この際注意しておくべきことは、地霊という言葉のなかに含まれるのは、単なる土地の物理的な形状に由来する可能性だけではなく、その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素もまた含まれているということである。そうした全体的な視野をもつことが、地霊に対して目を開くということなのである」。
現在も残る土地特有の個性を微地形地図から導き出す
地形から探る土地柄
建築において重要視されているテーマの一つに「場所性」がある。敷地内部だけにとらわれず、その場所に備わった個性や背景、文脈などを読みとり、その場所の個性を反映した計画を目標とする考え方だ。
目標達成のためには実際にその場所を訪れ、周辺を歩きまわって自身の肌感覚で雰囲気をつかまなくてはならない。そういった地域の味わいとか雰囲気のようなものを建築学界隈では、「ゲニウス・ロキ(地霊)」と呼んだりする。擬人化されたキャラクターのように捉える視点だ。
とはいえ現代の都市部では移り変わりが激しくて地霊と出合うのは困難である。とりわけ私の住んでいる那覇は、沖縄戦とその後の開発によって歴史的にも大きく変化してしまった。
さて、そんな那覇の地霊に出合うにはどのようにアプローチしたらよいものだろうか。そう考えていたときに「微地形地図」を見つけた。航空機からのレーザー測量などによって土地の高低を調査し、その数値データをもとに作られたものだ。等高線によって表現された従来の地形図よりも細かくて直感的に把握しやすい地図である。
那覇の地形的な特徴を把握しやすくするため、高さによって塗り分けた微地形地図を作製してみる=上微地形地図参照。標高0㍍を黒色、標高30㍍の城岳公園あたりを白色としたグラデーションに設定する。すると、かつて浮島だった那覇の面影が見えてきた。
さらに地図上に白く浮き出た場所のいくつかを訪れてみると、その多くが拝所・旧跡だったのだ。そこは戦後の開発による造成を免れ、かつての地形を留めた場所だった。
入江だった与儀付近
今年2月、与儀交差点近くの街路整備によって、戦前の石造アーチ橋「与儀橋」が姿を見せて話題になった。その道路下にはガーブ川の支流があったのだ。かつてはこの一帯まで山原船が入っていたらしく、「船増原」という地名からもその名残がうかがえる。
先の微地形地図でこの一帯を眺めてみると、入り江のような地形が残っていることが分かる。上流からの長年の土砂滞留や先人による埋め立てなどによって川底川幅が狭まって現在のかたちになったのであろう。
マジムン伝承の場所も残る
沖縄の妖怪「マジムン」の伝承も面白い。ほぼ必ずマジムンが出没した具体的な地名とセットで語り継がれているからだ。そこは当時の人たちが不安を覚えるような雰囲気の場所だったのかもしれない。
例えば、ゆいレール奥武山駅近くに残るガーナームイ。かつては漫湖にたたずむ小島の一つであったが、実は夜な夜な人里を襲うマジムンだったのだとか。ジュンク堂書店那覇店裏にある七つ墓には、子育て幽霊の逸話が残っている。それらも微地形地図を見てみると、かつての地形が残っていることが分かる。
微地形地図によって、現在の那覇にも地霊が息づいていることを視覚化することができたのだった。
微地形地図から浮かび上がる拝所・旧跡、ゲニウス・ロキ 辻御嶽
付近には戦前まで遊郭があった。戦後の造成による御嶽の破壊を避けるために辻の遊女だった上原栄子が先んじて料亭を建てたことで知られており、その地形が残っている(『辻の華』参照)
三重城(ミーグスク)
対岸の屋良座森城(ヤラザムイグスク)とともに、かつては那覇港の入り口となる堤防でつながれた突端だった
与儀橋
街路整備であらわになった石造アーチ構造の与儀橋
街路整備であらわになった石造アーチ構造の与儀橋
2022年2月17日撮影 2006年7月27日撮影
与儀交差点陸橋より開南向け仏壇通り側を臨む定位置写真。写真真ん中の道路のすぐ下あたり(赤線部分)をガーブ川の支流が横切っている。街路整備による変化の様子や暗渠(あんきょ)化された与儀橋の様子がわかる
ガーナームイ
かつては漫湖の水面にたたずむ小島だった。マジムン伝承の残る場所。ムイ(森)の頂上には碑が建てられて拝所になっているので、厳かな雰囲気が残っている
七つ墓
沖縄における子育て幽霊の逸話の場所とされる。手前には、かつて浮島だった那覇に渡るための長虹堤が架かっていた(2006年にゆいレール美栄橋駅より撮影)
ガーナームイ
かつては漫湖の水面にたたずむ小島だった。マジムン伝承の残る場所。ムイ(森)の頂上には碑が建てられて拝所になっているので、厳かな雰囲気が残っている
七つ墓
沖縄における子育て幽霊の逸話の場所とされる。手前には、かつて浮島だった那覇に渡るための長虹堤が架かっていた(2006年にゆいレール美栄橋駅より撮影)
[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。
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毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1892号・2022年4月8日紙面から掲載