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2023年2月10日更新

時代に翻弄された琉球と沖縄|首里城(那覇市)[探訪PartⅡ(32)]

次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。文・写真/福村俊治

時代に翻弄された琉球と沖縄

首里城(那覇市)

大海に浮かぶ小さな島国沖縄は、地政学的側面から常に外圧に翻(ほん)弄(ろう)され、盛衰の歴史を持つ。そして首里城は、常に時代の政争の場となった。

沖縄は狩猟や漁労などの採取時代を経て、12・13世紀にグスク時代が始まる。そのころ既に海外との交易が始まっていた。各地のシマ(村)の按司(アジ)(地方豪族)は交易による富や農耕技術を得て地域内を治め、防御のために高台にグスク(城)を築き、勢力争いをした。そして14世紀には北山(今帰仁城・運天港)、中山(浦添城と首里城・牧港と那覇港)、南山(島尻大里城・馬天港)に淘(とう)汰(た)され三山時代になる。シマを治め、勢力を拡大するためには交易ができる良港の存在が重要であった。

1429年尚巴志(しょうはし)によって統一された琉球王国の首都首里は、那覇の東に位置し、丘陵や深い谷・川に囲まれた隆起サンゴ礁の高台で、その南端部に首里城がある。ここからは那覇港、東シナ海、南部一帯が眺められ政治・経済の拠点となった。その琉球王国も中国との冊封(さっぽう)体制による交易によって得た経済力で中央集権国家をつくり、首里城や首里の街を築いた。しかし、1609年薩摩は琉球の交易を狙って琉球侵攻し、琉球王国は体制を維持しながらもその支配下に下った。琉球王国は450年間続くがその間、中国と薩摩の従属下にあった。

そして1879年の明治政府による琉球処分によって沖縄は日本に組み込まれ、琉球王国は消滅し首里城も廃れる。1923年正殿の取り壊し直前に伊東忠太や鎌倉芳太郎の尽力により正殿を沖縄神社の拝殿(当時は国家神道の時代)とすることによって保存・改修され、国宝になった。その後44年末から日本軍第32軍司令部壕(ごう)が首里城地下に設営されたため、沖縄戦では米軍の集中的爆撃を受け、首里の街や首里城の建物や石垣などはことごとく破壊された。
 
琉球王国時代の首府首里の街並みと王宮首里城。中継貿易によって栄えた琉球王国時代。各地の按司を城下に集め中央集権体制を確立した。(写真・首里城展示模型)
琉球王国時代の首府首里の街並みと王宮首里城。中継貿易によって栄えた琉球王国時代。各地の按司を城下に集め中央集権体制を確立した。(写真・首里城展示模型)
 
沖縄戦直前1944年10月の写真。琉球王国時代の建造物も多く、緑豊かな地域だった。首里城内外に師範学校や小学校などもあった。日本軍によりこれらの施設は撤収、地下に司令部壕が建設され、米軍の集中攻撃を受けることになる。(写真・沖縄県公文書館)
沖縄戦直前1944年10月の写真。琉球王国時代の建造物も多く、緑豊かな地域だった。首里城内外に師範学校や小学校などもあった。日本軍によりこれらの施設は撤収、地下に司令部壕が建設され、米軍の集中攻撃を受けることになる。(写真・沖縄県公文書館)
 
沖縄戦直後1945年12月の写真。沖縄戦によって首里の街、首里城がことごとく破壊され、首里城敷地は城壁も壊れ真っ白な岩山となり、平地は樹木もなく爆弾の穴だらけだった。(写真・国土地理院)
沖縄戦直後1945年12月の写真。沖縄戦によって首里の街、首里城がことごとく破壊され、首里城敷地は城壁も壊れ真っ白な岩山となり、平地は樹木もなく爆弾の穴だらけだった。(写真・国土地理院)


外圧・政争 今も

戦後50年、首里城敷地に平和な社会建設の礎を目指して琉球列島米国民政府によって琉球大学が設立されるが、30年足らずで西原へ移転した。一方、守礼門の復元をきっかけに首里城復元の機運が高まり、日本復帰後に国の史跡に指定され再建が始まり、かつての石垣や建物が再現され92年に正殿が完成。首里城公園として一般公開された。2000年には世界遺産登録され、地元で大きな感動を生み一大観光地になるが、19年10月に失火によって焼失した。

首里城の歴史を振り返ると、良きにつけあしきにつけ中国、薩摩、明治政府、日本軍、米軍、日本政府などの外圧や政争の場になっており、今なおそれが続いている。小さな船で大海原に飛び出して独自の交易をした大航海時代の琉球や沖縄であってほしい。
 
1977年琉球大学があったころの写真。戦前沖縄には大学などの高等教育施設がなかった。戦後48年米軍の統治下で首里城跡に大学設立決定。50年琉球列島米国民政府の指示指導の下で琉球大学設立。(写真・国土地理院)
1977年琉球大学があったころの写真。戦前沖縄には大学などの高等教育施設がなかった。戦後48年米軍の統治下で首里城跡に大学設立決定。50年琉球列島米国民政府の指示指導の下で琉球大学設立。(写真・国土地理院)

正殿焼失前の写真。1977~85年琉球大学移転。86年首里城公園(国営沖縄記念公園・首里地区)として首里城の石垣や建造物の復元整備が進み、92年正殿復元完了し首里城公園として開園。2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録。19年1月に復元工事終了、10月末失火により正殿全焼し、26年に再建予定。一方、周辺の城西小学校や沖縄県立芸術大学や住宅なども赤瓦葺き屋根にするなど景観重視の建設がされつつある。(写真・グーグルアース)
正殿焼失前の写真。1977~85年琉球大学移転。86年首里城公園(国営沖縄記念公園・首里地区)として首里城の石垣や建造物の復元整備が進み、92年正殿復元完了し首里城公園として開園。2000年「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録。19年1月に復元工事終了、10月末失火により正殿全焼し、26年に再建予定。一方、周辺の城西小学校や沖縄県立芸術大学や住宅なども赤瓦葺き屋根にするなど景観重視の建設がされつつある。(写真・グーグルアース)

[沖縄・建築探訪PartⅡ]福村俊治
ふくむら・しゅんじ 1953年滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。沖縄県平和祈念資料館、沖縄県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎のほか、個人住宅などを手掛ける

毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1936号・2023年2月10日紙面から掲載

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