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2021年8月13日更新
[沖縄・建築探訪PartⅡ⑭]本土建築家が描いた新しい沖縄建築
次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。文・写真/福村俊治
本土建築家が描いた新しい沖縄建築
かつて建物や街の景観はその土地の気候風土に合わせて、先人が長年かかって作ってきたものだった。石材が取れるところは石造り、森林の多いところは木造のようにその土地で手に入る建築資材や職人技術で気候風土にあった建物が作られ、周囲の自然風景の中で集落や街の景観が作られてきた。南北に長く多様な気候風土の日本の各地には個性のあるさまざまな「民家や景観」があった。しかし戦後、建物や都市は経済性と機能性のみが重視され、建設・設備技術の進歩によって気候風土など環境までコントロールできるような時代になって、貴重な自然環境を壊しながら均質化した箱のような味気ない住宅や建物ばかりが並ぶ都市が増えていった。そんな経済優先時代、本土には多くの良識ある建築家が悶(もん)々(もん)としていた。
一方、本土の高度経済成長に比べ開発や都市化が遅れていた沖縄に招かれたその本土の建築家にとって、島しょ・亜熱帯気候地域に位置し、年中温暖で自然の豊かさが残る魅力的な沖縄の気候風土の中で建築を作るのは、本土ではあり得ない設計のチャンスであった。新しい沖縄建築の創造意欲をかき立てられた。そして地元の建築家よりも「新しい沖縄建築作り」の挑戦が続き、小さな沖縄の中に数多くの力作が生まれた。これは他府県では見られない現象だ。
名護市庁舎(1981年、象設計集団)
1979年、全国公開コンペで300を超える応募作から選ばれた。沖縄という地域建築のあり方を問うた
沖縄コンベンションセンター(1987年、大谷幸夫)
多くの人々が集まる施設で、建物周辺も多くの大屋根が影を作る。戦争を体験した設計者が、沖縄戦慰霊の気持ちを込めた作品
城西小学校(1986年、原広司)
首里城が復元される前に計画・建設された。各教室に赤瓦屋根を載せ、首里城周辺の景観を誘導した
「らしさ」模索する工夫
本土の建築家が新しい沖縄建築を模索したこれらの建物を見ると、共通するところが見える。
内部と外部が連続するような開放的な平面計画、影を作る屋根やピロティ、風が通り抜けるコンクリート花ブロック、赤瓦屋根、プレストレストコンクリートなどの沖縄らしさを模索するいろいろな建築的工夫がされ、一時期沖縄は日本の現代建築の宝庫であった。しかし、これらの建物の半分ほどがすでに取り壊されてしまい、これらの模索が地元の建築家に継承されているだろうか。現在の沖縄は本土とほぼ同じ建物や街になっているような気がしてならない。気候風土を生かした沖縄らしい建物や景観を作りたい。
琉大附属病院(県立那覇病院、1972年、芦原義信)
全面花ブロックの低層棟が通りや公園に対して威圧感を和らげる建物配置となっている
聖クララ協会(1958年、片岡献)
戦後の混乱期に造られたアメリカの現代建築を彷彿とさせる教会建築。メンテナンスがしっかりされ、地域のシンボルとなっている
ふくむら・しゅんじ
ふくむら・しゅんじ 1953年滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。沖縄県平和祈念資料館、沖縄県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎のほか、個人住宅などを手掛ける
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1858号・2021年8月13日紙面から掲載