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2020年8月14日更新

夢の殿堂だった沖縄少年会館|建築探訪PartⅡ②

次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。

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久茂地公民館(那覇市) -2-

募金で集めた建設資金

那覇市の久茂地川沿いにあった久茂地公民館という建物が、2012年に老朽化を理由に取り壊された。この建物はかつて「沖縄少年会館」と呼ばれ、沖縄中の子供たちに大きな夢と感動を与えた。中高年の方々には思い出深い建物のはずだ。

1972年の日本復帰前の沖縄は母国日本から切り離された米軍施政下で、子供の教育の権利や民主主義どころでなかった。1950年に朝鮮戦争が始まり、基地建設などで混迷していた時期に、米兵による子供たちを巻き込んだ事件事故が多発した。一方で地元青少年の犯罪も激化した。そんな当時の不健全な社会状況を改善しようと教育関係者らで「沖縄子どもを守る会」(初代会長・屋良朝苗)がつくられ、活動の拠点としての少年会館建設が決まる。しかし、日本政府や米国民政府からの援助は望めず、建設資金を募金で集めた。地元の教育関係者・各種団体・一般市民、そして児童生徒の「1セント募金」などで約7万㌦が集まった。屋良会長は残りを全国行脚し、沖縄の教育界の実情を説明し、予想を上回る31万㌦もの善意のお金を集めた。当初の計画より大きな少年会館が66年に完成できた。



竣工時の全景。子供たちの夢を表現する造形的な外観(オキナワグラフ1966年4月号より) 

1階に守る会の事務局と食堂、2、3階は離島やへき地から訪れる子供たちの宿泊室、4階は動く鉄道模型のある科学室、5階は大ホール、最上階にプラネタリウムと天体望遠鏡が備えられた。当時はめずらしいエレベーターやらせん階段もあり、まさに「夢の殿堂」であった。


新幹線が走る鉄道模型(沖縄公文書館)



プラネタリウム室(オキナワグラフ1966年4月号より)


激動の時代伝える建物

そもそも、建物や街というのは、単なる箱やその集合でなく、その時代に生きた人々の生活や歴史や文化を形にしたものだ。だから、第2次世界大戦で破壊されたヨーロッパの都市では、戦後復興の第一歩は自分たちのアイデンティティーを求めて、かつての街や建物の復元から始まった。しかし、沖縄では沖縄戦があまりにひどかったため、その場しのぎの建物や街を造るのが一般的となり、今なおスクラップ・アンド・ビルドが続く。武徳殿や立法院など復帰前の時代を担った建物が取り壊され、復帰前の実情を伝えるものが少なくなったことは残念だ。そして今、日本復帰式典会場であった那覇市民会館や中央銀行であった琉球銀行本店ビルも近く取り壊されると聞く。皮肉なことに米軍基地は昔のままで、樹木も芝生も美しく居座り続けている。


エレベーターシャフトを取り巻くらせん階段


クロス梁(はり)など構造的にも相当工夫されていた

実は私も少年会館の保存活動に参加した。老朽化と言われていたが爆裂もほとんどなく、耐震補強も十分可能だった。この建物を設計した宮里栄一建築事務所の担当者であった仲宗根宗誠氏や施工した善太郎組の当時の社長の娘さんに聞いたが、募金から始まり、設計、施工、竣工まで「沖縄の将来を担う子供たちのために」という善意の一心でこの建物が完成したそうだ。そしてこの建物をつくった運動は次に日本復帰運動に続き、屋良朝苗氏は「核抜き本土並み」の日本復帰を要求し主席から県知事になった。こんな復帰前後の激動の話を伝えるためにこの建物を残しておくべきだった。そして、今なお本土並みの基地の縮小はほど遠く、沖縄の子供たちの問題も解決できないままだ。


1999年に解体された立法院(『那覇百年のあゆみ』より)


近々解体されるであろう那覇市民会館



ふくむら・しゅんじ
1953年滋賀県生まれ・関西大学建築学科大学院終了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、97年teamDREAM設立。県平和祈念資料館、那覇市役所首里支所、胡屋バプテスト教会ほか、個人住宅も手掛ける
 

毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1806号・2020年8月14日紙面から掲載

 

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