2020年7月10日更新
沖縄戦の戦争遺跡 保存・公開の意味|建築探訪PartⅡ①
次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。
沖縄戦の戦争遺跡保存・公開の意味
日本軍第32軍司令部壕(那覇市)
-1-
歴史文化を伝える建築
75年前の沖縄戦で、多くの尊い命とともに形あるものすべてを失った。戦前首里一帯には歴史的建造物が多く、国宝級の建造物だけでも11件20棟あった。それらの建造物は先人が長年築きあげてきた歴史の証しであり、首里城が復元されるまで琉球王国は各自の想像の中での「琉球」でしかなかった。それが1992年に復元され、城壁で囲まれた首里城の御庭や建物内に入って初めて「琉球」の歴史・文化、そして沖縄に生まれた者としてのアイデンティティーを実感したのではないだろうか。半面、昨年10月末の首里城全焼は多くの県民に大きな喪失感を与えた。建築や街とは本来そのようなものだ。
第32軍司令部壕 位置図
沖縄戦は沖縄にとって本当に不幸な出来事であった。沖縄戦の悲惨さを知る人が中心になって恒久平和を願い、多くの慰霊碑・平和の礎・平和祈念資料館がつくられたが、豊かな時代に生まれた人々には戦没者の名前や資料だけでは戦争の実相が伝わりにくい時代になっている。今こそ、その忘れられた戦争遺跡の保存・公開をしなければいけない。
首里城から龍潭池を見る ※沖縄県公文書館収蔵写真
司令官室 ※沖縄県公文書館収蔵写真
首里第32軍司令部壕
南西諸島防衛のための第32軍司令部は当初那覇市安里にあったが、10・10空襲の後、急きょ首里城地下に司令部を作ることになり、米軍上陸に間に合わないため、沖縄師範学校や県立一中の生徒や首里住民まで動員し、持久戦のための「縦深陣地」としてつくられた。城西小学校敷地斜面に第1・第2・第3坑口、第4坑口は金城町石畳の始まる道向い、第5坑口は県立芸大敷地の南側斜面、換気塔を兼ねた縦坑は2カ所あった。壕の全長は約500㍍。首里城の地下15~35㍍に掘られた約1・8㍍角の湿気に満ちた急ごしらえのものであった。細い坑道が仕切られ司令部の諸室があり千人近い兵隊がいた。
第32軍司令部壕。上は断面図、下は平面図。 ※「決定版 写真記録沖縄県 太田正英 高文研P62」より抜粋
縦杭のハシゴ ※沖縄県公文書館収蔵写真
4月1日米軍上陸、29日米軍の空爆・艦砲で首里城が破壊、5月22日南部への撤退が決められ、25日から3日間の総攻撃によって首里は完全に破壊された。撤退前に日本軍は坑口や坑道の爆破と司令部の書類の処理にあたった。直後に米軍が壕を調査したが、二つの縦坑の間は調査されておらず、置き去りにされた日本軍負傷兵の遺体があるのではないかと言われている。
杭道通路と木製2段ベッド ※沖縄県公文書館収蔵写真
この地下に司令部壕があったため首里が爆撃の目標となり、沖縄を捨て石として戦争を長びかせる命令がこの壕から発せられた。まさに「負の戦争遺跡」である。そして悲劇は続く。牛島中将ら日本軍は、南部へ撤退したため数万という一般住民が巻き込まれて命を落とすことになる。1カ月後の6月23日軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は摩文仁で自決し、組織的戦闘が終わった。沖縄戦の多くの悲劇を招いた命令が出された第32軍司令部壕を保存・公開し、沖縄戦の悲惨な実相を後世にしっかり伝えなければならない。
ふくむら・しゅんじ
1953年滋賀県生まれ・関西大学建築学科大学院終了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、97年team DREAM設立。県平和祈念資料館、県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎ほか、個人住宅も手掛ける
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1801号・2020年7月10日紙面から掲載
日本軍第32軍司令部壕(那覇市)
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歴史文化を伝える建築
75年前の沖縄戦で、多くの尊い命とともに形あるものすべてを失った。戦前首里一帯には歴史的建造物が多く、国宝級の建造物だけでも11件20棟あった。それらの建造物は先人が長年築きあげてきた歴史の証しであり、首里城が復元されるまで琉球王国は各自の想像の中での「琉球」でしかなかった。それが1992年に復元され、城壁で囲まれた首里城の御庭や建物内に入って初めて「琉球」の歴史・文化、そして沖縄に生まれた者としてのアイデンティティーを実感したのではないだろうか。半面、昨年10月末の首里城全焼は多くの県民に大きな喪失感を与えた。建築や街とは本来そのようなものだ。
第32軍司令部壕 位置図
沖縄戦は沖縄にとって本当に不幸な出来事であった。沖縄戦の悲惨さを知る人が中心になって恒久平和を願い、多くの慰霊碑・平和の礎・平和祈念資料館がつくられたが、豊かな時代に生まれた人々には戦没者の名前や資料だけでは戦争の実相が伝わりにくい時代になっている。今こそ、その忘れられた戦争遺跡の保存・公開をしなければいけない。
首里城から龍潭池を見る ※沖縄県公文書館収蔵写真
司令官室 ※沖縄県公文書館収蔵写真
首里第32軍司令部壕
南西諸島防衛のための第32軍司令部は当初那覇市安里にあったが、10・10空襲の後、急きょ首里城地下に司令部を作ることになり、米軍上陸に間に合わないため、沖縄師範学校や県立一中の生徒や首里住民まで動員し、持久戦のための「縦深陣地」としてつくられた。城西小学校敷地斜面に第1・第2・第3坑口、第4坑口は金城町石畳の始まる道向い、第5坑口は県立芸大敷地の南側斜面、換気塔を兼ねた縦坑は2カ所あった。壕の全長は約500㍍。首里城の地下15~35㍍に掘られた約1・8㍍角の湿気に満ちた急ごしらえのものであった。細い坑道が仕切られ司令部の諸室があり千人近い兵隊がいた。
第32軍司令部壕。上は断面図、下は平面図。 ※「決定版 写真記録沖縄県 太田正英 高文研P62」より抜粋
縦杭のハシゴ ※沖縄県公文書館収蔵写真
4月1日米軍上陸、29日米軍の空爆・艦砲で首里城が破壊、5月22日南部への撤退が決められ、25日から3日間の総攻撃によって首里は完全に破壊された。撤退前に日本軍は坑口や坑道の爆破と司令部の書類の処理にあたった。直後に米軍が壕を調査したが、二つの縦坑の間は調査されておらず、置き去りにされた日本軍負傷兵の遺体があるのではないかと言われている。
杭道通路と木製2段ベッド ※沖縄県公文書館収蔵写真
この地下に司令部壕があったため首里が爆撃の目標となり、沖縄を捨て石として戦争を長びかせる命令がこの壕から発せられた。まさに「負の戦争遺跡」である。そして悲劇は続く。牛島中将ら日本軍は、南部へ撤退したため数万という一般住民が巻き込まれて命を落とすことになる。1カ月後の6月23日軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は摩文仁で自決し、組織的戦闘が終わった。沖縄戦の多くの悲劇を招いた命令が出された第32軍司令部壕を保存・公開し、沖縄戦の悲惨な実相を後世にしっかり伝えなければならない。
ふくむら・しゅんじ
1953年滋賀県生まれ・関西大学建築学科大学院終了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、97年team DREAM設立。県平和祈念資料館、県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎ほか、個人住宅も手掛ける
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1801号・2020年7月10日紙面から掲載