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2021年4月9日更新

旧海軍病院建物を沖縄戦後資料館に|在日米軍海軍病院(北谷町)|建築探訪PartⅡ⑩

次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。

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在日米軍海軍病院(北谷町)

旧海軍病院建物を沖縄戦後資料館に 
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国道58号から見える外観。入院棟病室の長く細い庇のラインと端部の壁に囲われた避難階段のソリッドが印象的



キャンプ桑江にある海軍病院(沖縄県発行『沖縄の米軍基地』より)



病院入院棟の庇と避難階段(根路銘安史氏提供)

東洋一の設備&機能美

沖縄本島中部北谷町の国道58号沿いキャンプ桑江の一角、「米軍海軍病院(U.S.Naval Hospital)」と呼ばれた建物がある。数年前この病院は、普天間のキャンプ瑞慶覧に移転したため、今は空き家になっている。

戦後、米軍に接収された広大な敷地に、太平洋地域全体の駐留軍人や軍属とその家族のための病院として1958年に竣工した。当初は「陸軍病院」だったが、1976年に陸軍から海軍に移管され「海軍病院」となった。設計はアメリカの有名な設計事務所 S・O・M社(Skidmore,Owings & Merrill)、設計監理はDE(米軍工兵隊)、施工は地元の國場組だった。

建物は厳格な米軍仕様に基づき、主にアメリカ製の建築資材を使って建設された。5階建て、延べ床面積2万2400平方メートルのこの建物は、当時の琉球政府行政ビルの4・6倍の広さがあり沖縄では最大で、しかもアメリカの最先端医療や医療設備においては東洋一を誇る病院だった。また、基地内建物がどれも味気ないデザインのものが多い中で、この建物は当時のアメリカ現代建築をほうふつとさせる機能美のデザインでピカイチであった。そのスマートなデザインのため、米軍はこの建物を「HONEY(彼女)」という愛称で呼んでいたそうだ。60数年たった今でも老朽化もせず、美しい姿を保っている。

数年前、近代建築物の環境形成の記録調査や保存に取り組む国際学術組織「ドコモモジャパン」は「日本におけるモダン・ムーブメントの建築197選」に選定した。国道沿いにあって長年見慣れているこの建物に愛着を感じている人も多く、この建物の保存・活用の意味は大きい。




病院のメインエントランス部の外観(竣工当時のもの)。その後、上部の開口部を小さくする工事やエントランスの車寄せ部の増築工事がなされた(John E Sholine 撮影)

米軍支配の歴史残す

このキャンプ桑江は4年後の2025年もしくはその後に返還される予定で、その時にはこの建物は壊され更地として返還されることになっている。沖縄は沖縄戦によって形あるすべてを失い、多くの尊い命を失った。そして戦後27年間の米軍支配下で人々は苦渋の生活を強いられた。戦後77年たった今でも多くの基地が存在し、街づくりに支障をきたしている。

返還されたところには新しい活気ある街が生まれている。そして沖縄戦の悲惨な歴史を伝える慰霊碑や戦争資料館もたくさんあるが、戦後の米軍支配下の沖縄の歴史を伝える資料館はまだどこにもない。多くの人が米軍基地の返還を願っている。その返還運動のためにも、そして沖縄から基地がなくなった時、米軍支配や基地を知らない子供たちにその歴史を伝えるためにも、この「海軍病院」の建物を保存し、「米軍基地資料館」として活用できないだろうか。


病院中央部にある大きな斜路(根路銘安史氏提供)


建物銘板


沖縄初のアルミサッシ



ふくむら・しゅんじ
1953年、滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。現在、浦添西海岸・キャンプキンザー跡地利用計画や里浜22、第32軍司令部壕を保存活用する会などでも活動中。
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1840号・2021年4月9日紙面から掲載

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