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2020年12月25日更新
中山門や綾門大道など 周辺文化遺産にも目を|私たちの首里城[9]
首里琉染は京都の染色家で、私の父である山岡古都(こと)(故人)によって1973(昭和48)年に創設されました。場所は、かつて首里城の入り口であった中山門跡、真壁御殿のあったところです。
文・写真 大城裕美さん(㈲首里琉染 代表取締役)
中山門や綾門大道など周辺文化遺産にも目を|私たちの首里城[9]
㈲首里琉染 代表取締役 大城 裕美さん
明治時代ごろの中山門。綾門大道の西端に建っていた。守礼門と同型同大。1908年、老朽化により撤去
首里城が復元され、世界文化遺産に登録された記念に先代山岡が制作した首里城の着物
父・山岡古都。とても研究熱心な人だった
首里琉染は京都の染色家で、私の父である山岡古都(こと)(故人)によって1973(昭和48)年に創設されました。場所は、かつて首里城の入り口であった中山(ちゅうざん)門跡、真壁御殿のあったところです。
父は研究熱心な人でした。中でも特に琉球の歴史・文化に関する資料や文物などに私財を投じて積極的にそれらを渉猟(しょうりょう)しました。時にその過剰な情熱は地元の人から誤解を受けることもありました。
しかし父はそれにひるむことなく「沖縄の地で染色を生業(なりわい)とする以上、当地の風土・歴史・文化を知り尽くし、資料を後世に残したい」という一途な思いが強かったようです。
かつてあった中山門は守礼門とうり二つの楼門で、中国(清)の冊封使(さっぷうし)やペリー一行など海外からの要人は最初にこの門をくぐって正殿へと向かいました。琉球王府の表玄関ともいえる場所に工房を構えた父は、「ここは沖縄の玄関口である。心を込めたおもてなしをするのだ」とスタッフにきものを着用させ、丁寧な接客に心を配りました。
1997年10月に首里城で開催した「御新下」の様子。沖縄の祭事を復元するため、中国に行き歴史に基づき千着の衣装を制作した
世界でも稀(まれ) 香り立つ道
海外交易と外交に活路を見いだした琉球王府は、中山門から首里城までの通りを念入りに整備しました。綾門大道(あやじょううふみち)と呼ばれる世界でも稀な、香り立つ道路がそれで、白くピカピカと輝く路面にはハイビスカスの根や茎が練り込まれ、表面に細かい石灰粒をまぶして押し固めてあるのです。来訪者を歓待するため、嗅覚と視覚に訴える演出がなされた道でした。
しかし、戦後になると地元の人たちはそこを「裏道」と呼ぶようになりました。
父は一計を案じ、「御新下(おわらおり)」と呼ばれる王府時代の古式行列や冊封使行列を行おうと、その時代の衣装を千着も復元しました。これが1995(平成7)年のことで、この行列イベントは3年間続きました。綾門大道の大切さを知ってもらう取り組みに心血を注いだのでした。
昨年、首里城が焼失したとき、京都にいた私は琉球(沖縄)の大切な大きなものがなくなった喪失感でいっぱいになりました。
今、再建に向け多くの人々が動きだしています。焼け落ちた正殿や隣接する建物だけではなく、中山門や綾門大道を含め首里城を構成する周辺文化遺産にも目を向けていただきたいです。
それが琉球文化を知るきっかけになれば、これほどうれしいことはございません。父の遺志を、ほんの少しでもつなぐことができたらと願うばかりです。
おおしろ・ひろみ/紅型・サンゴ染めの製造・販売、サンゴ染め体験を行う「首里琉染」の代表取締役
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1825号・2020年12月25日紙面から掲載