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2020年11月27日更新

父の誇り、私の一部 唯一無二の首里城|私たちの首里城[8]

母校の城西小学校は、正門を出れば右手に龍潭、南門を出れば左手に守礼門といういわば「The 首里城のお膝元」に位置する。
文・写真 アラカキヒロコ(音楽家、シンガーソングライター)

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父の誇り、私の一部 唯一無二の首里城|私たちの首里城[8]

音楽家、シンガーソングライター アラカキヒロコさん



小学校5年生の写生の時間は首里城公園。当時も今も、一番好きな門は瑞泉門


学校の授業で首里城を調べたことも、首里城や首里への想いを醸成した


母校の城西小学校は、正門を出れば右手に龍潭、南門を出れば左手に守礼門といういわば「The 首里城のお膝元」に位置する。
1992年、私が小学3年生のころ首里城公園が開園した。開園に向けて整備が進んでいた時期は必然的に学校の周辺も整い、それと連動してか2年生時は授業で首里城や周辺の文化財に触れて学ぶ機会が多かった。龍潭も、艦砲射撃の名残でボコボコだった遊歩道が真新しい白い石畳になった。本音を言うと雨の日に石畳の砲弾痕に水がたまりかわいいエビが姿を現す整備前の遊歩道のほうが好きだったが、きれいになったらなったで新鮮な遊び場と化し、飛び込んではしゃぎ、大人に怒られた。
太平洋戦争時、首里城やその周辺の地下に日本軍の第32軍司令部壕が置かれたため首里は米軍のおびただしい艦砲射撃を受け“国敗れて山河なし”と評されるほどの焼け野原となった。龍潭の旧石畳のみならず街の古い石垣などに生々しく残る無数の穴が砲弾の痕だと教わり、登下校の道々の石垣を眺めては幼心に戦争の情景を想像した。
1932年生まれで、戦前・戦中に首里城内に位置した首里尋常高等小学校・首里第一国民学校(現・城南小学校)に通っていた私の父は、首里城の復元が佳境を迎えると「龍潭池ではなく、龍潭」「守礼之門ではなく、守礼門」など正式名称の啓蒙にはじまり、正殿正面の唐玻豊(からはふう)や朱漆、門についてなど、首里城と周辺文化財のさまざまなうんちくを私に説いて聞かせた。少々の面倒臭さとともに、しかし私が当時しっかり受け止めた(が故に今も記憶している)それは、父の首里に対する想いの発露であり誇りでもあったと思う。

丁寧な再建を

戦争で破壊された、父の世代が幼少期に生きた首里の街と文化は永久に戻らないだろう。それが耐えきれず、戦後二度と首里に戻ってこなかった方の話も聞く。それでも、この街と生活を立て直した先輩方、首里城の建築物群や門・城郭の復元に人生をかけた方々がいる。目には見えないそれらの想(おも)いを手渡され記憶を育みながら、私は1992年版の首里城が生きる街に生活していた。
去年、まだ暗い空に赤く燃える御城を見ながら、その不可視なものたちが自分を形成する大切な一部だったことを知った。「今回燃えた首里城はレプリカだ」と言う人もいるが、私にとっては、今のところ自分の歴史と共に在った唯一無二の首里城だった。新しい首里城が、街の生活と共存し、想いを寄せる人それぞれにとっての唯一無二になるよう、丁寧に丁寧に再建されるよう願っている。


あらかき・ひろこ/時間、生命、弥勒世果報を軸に曲を紡ぐ。沖縄県内外での演奏のほか映像楽曲制作、コラム執筆、FM番組DJなど幅広く活動。Ninupha Music代表。首里まちづくり研究会事務局次長。
 
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1821号・2020年11月27日紙面から掲載

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