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2019年6月28日更新

県平和祈念資料館 平成12年(2000年)開館|設計/team DREAM(チームドリーム)共同企業体

【建築士は時代を造る|沖縄 平成の名建築】7月1日は建築士の日。時代を超えて人々の心をつかむ名建築を手掛けた県内の建築士や、新たな時代を造る建材&工法を生み出した建築士を紹介する。

県内には世界中の人々の心をつかむ建築物がある。その中から平成に完成したものをピックアップ。手掛けた建築士の裏話と共に紹介する。


写真左手にあるのが完成したばかりの県平和祈念資料館。写真右手の白い円形広場にある平和の火を中心として、その手前にある平和の礎と同資料館が同心円状に並んでおり、一体感がある。放射状に伸びる通路は、平和を世界に向けて発信する様子を表現。その中でも幅が広い、写真手前に伸びる通路は、沖縄戦が終結した1945年6月23日の日の出の向きを軸にしている。右端の建物は旧資料館(4面建物の写真は福村さん提供)
 

礎とつなげ平和を形に

若手に好機あるコンペ
「若手の建築士でもチャンスをもらえたからこそできた建物」。糸満市にある県平和祈念資料館の設計で中心的な役割を担った、チームドリームの福村俊治さん(66)は同資料館についてそう話す。

1995年、旧資料館の老朽化に伴い、新資料館の設計コンペが開かれた。その応募条件は、“1級建築士が5人以上いる組織やグループ”。設計コンペの多くが会社の規模や実績などを重視していたのに対し、「当時の沖縄ではアイデアが評価されたので、小さな事務所の若手の集まりでも参加できた」。

福村さんの呼びかけで、6事務所から6人の建築士が集結。チームドリーム共同企業体を結成し、案を練り始めた。「建築は場所の意味も考慮すべき。ここではたくさんの名前が刻まれた平和の礎が最重要であり、そこに加わる建物は礎と関係性を保ちつつも風景をつくるものでなければならない」ということを軸にした。

しかし建設予定地は、既存の礎から少し離れた場所。そこで福村さんたちは、礎が平和の火を中心に同心円状に並んでいるのを生かし、資料館もその同心円に配置し取り囲む形にした。礎と資料館との間につながりが生まれた。

たくさんの赤瓦屋根は、沖縄戦で失われた集落を表現。そのため、それぞれ瓦の色や形、葺(ふ)き方に変化を付けた。礎に近い方は低層で小さな屋根にして、威圧感を与えず景観になじむようにも配慮

96年、審査の結果、平和の礎と一体化した提案などが評価され、設計案が採用されることに。すると、福村さんは義理の母から「平和の礎の横にへんな建物を造ったら許さんからな」と、くぎを刺された。自身は県外出身で沖縄戦のことをほとんど知らなかったが、「人も物も全て失った沖縄戦を伝える資料館は、沖縄にとって重要な施設だ」ということを再認識。国内外からも多くの人が訪れる場所であることも意識し、新たにチームに入った若手建築士や大学生などと共に「慎重に」設計や現場の工事を進めていった。

工事関係者の多くは身内の名前が礎に刻まれていたこともあり、現場には普段とは違った独特の空気が流れていたという。「それぞれが慰霊の思いを胸に、沖縄戦に向き合いながら、平和を形にしていくような仕事ぶりだった」

99年に完成し、2000年にオープンしてから約20年。沖縄戦からは74年がたつが、6月23日の慰霊の日には今年も多くの人が戦没者の追悼のため、礎を訪れた。その様子をそっと見守りながら「平和を形にした」資料館は沖縄戦を伝え、平和を求める沖縄の心を世界へと発信し続ける。


平和の礎側から見た県平和祈念資料館。1万平方メートルを超える大きな建物だが、手前の屋根は低く小さく、奥は高く大きくすることで威圧感がなく、風景になじんでいる


集落を表現したたくさんの赤瓦屋根は、実際の集落と同じように、一つ一つ瓦の色や形、葺き方、屋根の大きさなどが異なる


県平和祈念資料館を手掛けた設計チームの中心的存在だった、チームドリームの福村俊治さん

<建築士の日特集>
沖縄美ら海水族館
県立博物館・美術館
県平和祈念資料館


編集・取材/出嶋佳祐
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1747号・2019年6月28日紙面から掲載

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