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2022年6月10日更新
[沖縄・建築探訪PartⅡ(24)]国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)
次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。文・写真/福村俊治
20万人余りの沖縄戦 戦争遺骨はいずこ
国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)77年前の6月、梅雨の沖縄本島南部は地獄だった。4月に米軍が上陸、5月末には日本軍司令部のあった首里が陥落。武器も兵士も大半を失い事実上の勝敗は決したにもかかわらず、日本軍は多くの住民が避難する南部へ撤退し、司令部を摩文仁の自然壕に移した。住民を助けるためではない、沖縄戦を長引かせ本土決戦を遅らせる作戦だった。沖縄戦での県民犠牲者約12万余のほぼ半数が1カ月間でこの南部で亡くなっている。米軍の攻撃はすさまじく、兵隊と住民が混在した南部は悲惨な地上戦で、自然壕内では住民虐殺や強制集団死も起きた。6月23日、牛島司令官の自決で沖縄戦は終わったとされるが、自決前に「最後まで敢闘し悠久の大義にいくべし」と言い残したため、その後も戦いは続いた。結局9月7日、琉球列島の全日本軍が無条件降伏を受け入れ降伏文書に署名するまで沖縄戦は続いた。
沖縄戦では日本側だけでも20万余が亡くなり、敗戦後も遺体は放置されたままだった。そして、米軍収容所から地元に戻った人々がいたるところに転がる遺骨を拾い始めることから戦後が始まった。南部の米須に移転収容された旧真和志村の住民が、遺骨収集を始め作ったのが「魂魄(こんぱく)の塔」だ。1957年に日本政府が琉球政府に委託して那覇市識名に戦没者中央納骨所を作ったが遺骨の多さに手狭になる。そして33年忌も過ぎた79年に糸満市摩文仁に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨が集められた。しかし、今なお壕や原野に放置された遺骨が残る。
沖縄県平和祈念公園内の国立沖縄戦没者墓苑全景
参拝所と納骨堂(納骨堂は3棟あって合祀者数18万余柱)
「碑の建築家」が設計
この沖縄戦没者墓苑を設計したのが建築家谷口吉郎(1904~79)で、58年国立千鳥ケ淵戦没者墓苑、71年硫黄島戦没墓苑、73年比島戦没者の碑、74年中部太平洋戦没者の碑などのほか、文学碑や記念碑も多く手がけた「碑の建築家」である。建物としては東宮御所や東京国立博物館などがあり、特にホテルオークラのメインロビーは有名で、日本の伝統的なしつらえを生かした現代建築を得意とした。
沖縄戦没者墓苑は沖縄平和祈念公園内の各県慰霊碑の中央にある。斜面3カ所に分かれた納骨堂は琉球石灰岩の切り石積みで、一番手前のものは両端が前に突き出しており、抱擁を意味している。その前面には万成石(まんなりいし)の壇上に黒御影の石棺の碑が置かれている。参拝所は約6メートル角、45度振られた太いコンクリート柱に支えられ、深い軒を持つシンプルな方形(ほうぎょう)赤瓦屋根の建物だ。納骨堂は玉稜(たまうどぅん)、参拝所は神アシャギをモチーフにしているように私には思える。この墓苑は79年2月1日に竣工し、その翌日谷口は亡くなった。
沖縄戦が終わって77年、沖縄にはまだ墓苑にも入れない放置された戦争遺骨が収骨を待ち続けている。
参拝所内部から納骨堂と慰霊碑を見る
糸満市米須にある 魂魄の塔
東京にあるホテルオークラメインロビー
魂魄の塔の銘板
糸満市米須にある 魂魄の塔
東京にあるホテルオークラメインロビー
魂魄の塔の銘板
ふくむら・しゅんじ 1953年滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。沖縄県平和祈念資料館、沖縄県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎のほか、個人住宅などを手掛ける
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1901号・2022年6月10日紙面から掲載
第1901号・2022年6月10日紙面から掲載