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2021年4月23日更新

城郭外に王子らが住む 緑豊かで平和な城下町|私たちの首里城[12]

首里城復興に向けて関係各位が尽力をしている。

城郭外に王子らが住む
緑豊かで平和な城下町

琉球大学工学部准教授
小野 尋子さん


首里城復興に向けて関係各位が尽力をしている。首里城焼失の報を受け、琉球大学では西田睦学長を中心に「首里城復興学術ネットワーク会議」が立ち上がり、筆者は、都市計画の専門家として城下町の都市の変遷を研究したいと考えた。城は治世・外交の場であることから、当代随一の文化・芸能が集積する。城下町には少なからず城と関連した有形・無形の文化が息づいているからだ。

元の表通りは首里高裏

研究では15世紀から現代までにわたって史料を集め、戦後については地図やヒアリング等で補足しながら調べた。結果、按司集居策(1500年頃)で城郭外が居住空間へと変わった。だが、中城御殿の移転(1857年)や首里城明け渡し(1879年)の混乱、中山門消失(1908年)で城下の領域性が縮小。大正時代の首里城の一連の文化財指定(1923~33年)から城郭外の施設が外れたこと等が、戦前までの城と城下町の関係性変化の契機となっていることが分かった。特に、首里城に至るまでの道として、中山門から守礼門までの「綾門大道」から「龍潭通り」へと正面性が逆転したことは印象的であった。綾門大道は現在の首里高校裏手、県道50号線にあたる。

県外の城下町は江戸時代(265年間)の形成であるが、沖縄では按司の集居策が進められた1500年頃から1879年の首里城明け渡しまでで370年と100年以上長く平和な治世が続き、琉球王朝文化や首里城下町が形成された。その平和に裏付けられた大きな特徴が、城郭外の世子殿の建設だ。城郭外に世継ぎが居を構えることは珍しい事例である。

城郭外での王族の居住は、城下町全体の品格を向上させ、結果として中山門から守礼門までは、香粉道というおそらく世界最古の道路舗装がなされていた=上写真。中山門を抜けると、そこには土ぼこりの立たない白く輝く舗装された道があったことは、訪れた人の目に、城下の領域性を実感させるに十分なしつらえであっただろう。現在は「首里高裏門通り」と呼ばれている道が、である。

しかし、王族、冊封使や薩摩藩の役人が通ったこの道は、1908年に中山門が失われて以降、正面性やゲート性が失われたようだ。1980年刊行の首里高百周年記念誌の記載によると、大正時代に当時皇太子だった昭和天皇がご来島した時(1921年)には、歴史ある綾門大道を通ることなく、皇太子は龍潭通り側を通り入城したと記されている。龍潭通りは、現在は県道として拡幅され、景観形成地域として沿道景観が整えられているが、元々は登城のための正式な道ではない。

沖縄県立博物館美術館に収蔵の「首里那覇港図屏風(びょうぶ)八曲一隻(はっきょくいっそう)」は、那覇港から首里城までを描いている。琉球国司官が先導しながら薩摩藩の役人が乗るかごが、第一の坊門である中山門を抜けて綾門大道を通りながら守礼門に向かう姿が恭しく描かれている。黒塗りの首里城や行列下部に描かれた中城御殿の位置、また、首里城最後の重修工事が1864年であったことを考えると、1850~60年代の様子を基にしている可能性がある。綾門大道は玉陵や御殿、寺院等の緑が生き生きと描かれ、大きな幅員を持ち、格式の高い、まさに正面の道として描かれている。王朝時代の冊封使も通る正式な道であった。(執筆者撮影)

平成の首里城復元では、1712年頃の最も王朝として栄えた時代の首里城の復元が行われた。令和の復元では第一の坊門である中山門の復元も含め、多くの絵図に描かれる18世紀の豊かな城下町を彷彿とさせる関連施設の再現が望まれる。
 


おの・ひろこ/琉大工学部建築学コース都市計画研究室。学生と共に首里城下町の歴史的変遷を研究
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1834号・2021年2月26日紙面から掲載

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