防災
2020年12月4日更新
北海道胆振東部地震 体験記(1)|みんなの防災計画[20]
文・知念メンドーザ麗子
旅行中、北海道胆振(いぶり)東部地震に遭遇した知念メンドーザ麗子さんに、被災時や避難所の様子などを3回に分けて伝えてもらう。知念さんは「地震直後は生きた心地がしなかったが、訓練を重ねた避難所運営のおかげで安心できた」と話す。
安心が一瞬で絶望へ
即決・即行動が求められる夫婦で旅行していた2018年9月6日の午前3時過ぎ、宿泊していた札幌市内のホテルで、北海道胆振地震(震度7)に遭遇しました。その日、沖縄に帰る予定で安心していたのが、一瞬で恐怖へと変わった出来事でした。
地震は、まるで地の奥底からゴジラが起き上がり、ホテルごと持ち上げて下に落としたようなゴーッ、ドスンッという感じ。いわゆる直下型地震を体感し、心臓は恐怖でバクバクと鼓動。緊張し、自分の人生はここで終わるかもしれないと本当に思いました。
気が動転しながらも携帯電話で情報を確認。「数日分の水や食料を、コンビニで購入し、早く逃げよう」という考えに至りました。
余震がある中、12階から非常階段を、荷物をすべて持って下りました。ホテルから「電気や水道が止まり、リネン類の交換もできないため延泊はできない」と言われたので、すぐにチェックアウト。玄関口で、新千歳空港方面に向かうビジネスマンに頼み、タクシーに同乗させてもらって千歳市へと向かいました。
信号はほとんど作動しておらず、ガソリンスタンドの屋根が崩れ落ちていたりする中で、まだ車は走っているし、コンビニも営業中。警察は交通整理を始めていましたが、市街地は閉鎖状態ではありませんでした。
後から聞いた話ですが、ホテルに残った人たちは、ロビーで過ごさざるを得ない上、数日間は移動手段もなく待機。コンビニもほどなく品切れとなり閉まったそうです。
災害時はすぐ決めて動くことも求められると分かりました。しかし、その逆が正解の時もあるし、判断の分かれ道があるのだと痛感しました。
避難所の運営に感謝
千歳市に着いたものの空港は閉鎖。市内では数百人の観光客がスーツケースを引きずり、さまよっていました。
しかし、千歳市はしっかりと災害・避難対策をしており、地震発生から10時間後には数台の専用バスを使って、いくつかの避難所に観光客を振り分け、収容。私たちは「防災教育施設そなえーる」という自家発電や、食料・水の備蓄もある避難所に、夕方5時頃には着いていました。
朝からまともな食事をとれていない被災観光客に、温かいスープも提供されました。その時は本当に「生きた心地」を実感しました。
また、隣接する航空自衛隊から毛布や段ボールベッド、パーテーションなども配布され、被災者も協力して配布や組み立てをしました。
被災した外国人旅行者や高齢者、母子、視覚・聴覚などの身体的支援の必要な被災者に対しては、多言語で案内したり、支援が必要なことを示すカードが配られたりと、細やかな援助の用意がありました。ボランティアや市職員の方々が、てきぱきと消灯時間の夜10時頃までに必要なことをほぼ終了させていました。
訓練を重ね、ノウハウを熟知した千歳市の職員ならびにボランティア、自衛官の方々との連携による、迅速かつプロフェッショナルな避難所運営に感動しました。
一方で、いくら整った避難所でも、被災者だけの自主運営では簡単に進まなかっただろうと、被災した立場だからこそ今も言えます。
今日は野宿をしないで済んだ、屋根のある場所で、温かい食べ物をいただき、人間らしく安心して眠れると思うと感謝の気持ちばかりが湧いてきた、そなえーるでの体験でした。
地震直後、ホテルの非常階段で、12階から1階まで下りていくときの様子。右手の壁がはがれている
JR千歳駅前でどうすることもできない被災観光客。この後バスが来て、避難所に向かった
毛布と段ボールだけだったが、安心して眠ることができた
避難所の「そなえーる」で温かいスープをいただき、ほっとする筆者
ちねん・メンドーザ・れいこ/NPO法人防災サポート沖縄防災リーダー、沖縄市消防機能別団員(通訳・その他)
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1822号・2020年12月4日紙面から掲載