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2021年6月11日更新
[沖縄・建築探訪PartⅡ⑫]沖縄戦体験者が望む戦争史の終結点| 第32軍司令部壕資料館|那覇市
次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。文・写真/福村俊治
第32軍司令部壕資料館(那覇市)
25年前、糸満摩文仁の平和祈念資料館建て替えに伴う設計コンペで私たちが選ばれた。沖縄戦を知るため書物を読み慰霊碑を見学したが、滋賀県大津市出身の私には、なぜか沖縄戦は遠い昔の出来事だった。しかし資料館の現場には、不思議な雰囲気があった。建築現場はどこも煩雑なのに、この現場に限っては誰もが落ち着き払い淡々と仕事をしていた。聞くと現場で働く誰もが「平和の礎」に身内の名前が刻銘されていて、資料館での作業が「平和を形にする」慰霊の気持ちであったそうだ。
数年前、沖縄戦当時の知事・島田叡(あきら)の「生きろ」というテレビドラマを見た。島田を調べていて、兵庫出身と聞いていた島田が私の母校の小学校のすぐ近くで生まれ、3歳までいたことを知った。当時大津市には日本陸軍があり、島田の父がそこの軍医だった。急に島田知事が身近になり、沖縄戦が人ごとでなくなった。
首里城焼失前の城西小学校と首里城一体の航空写真(写真/新建築)
糸満摩文仁の沖縄平和祈念資料館と平和の礎(写真/メディアユニット大野繁)
去年6月、86歳の垣花豊順氏が第32軍司令部壕の保存公開を公約に県議選に出馬したが落選した。その後、垣花氏の娘さんに頼まれ、保坂元琉大教授からの資料提供もあって地下壕の位置がわかる首里城一帯の模型を作った。保存公開の会では、子供の頃民家の縁側に座る湯上がりの裸姿の牛島中将を見たという壕保存会理事の吉田朝啓氏や牛島中将の孫である牛島貞満氏に会った。沖縄戦は歴史上の遠い昔の話でなく、身近なことなのだ。首里城は残念ながら火災で焼失したが、華々しい琉球王国の時代を感じさせ多くの観光客や地元の人を集めた。しかし、負の遺産である司令部壕は未調査部分に遺骨があるにも関わらず戦後76年間忘れられている。
実相知るきっかけに
確かに沖縄戦を伝える資料館や書物や慰霊碑はたくさんある。しかし戦後生まれの人々にとってはそれらを見ても沖縄戦の悲惨さが実感できない。2メートル角の粗末な薄暗い壕の空間を体験することこそ、沖縄戦の実相を知るきっかけになる。
今87歳の垣花豊順と90歳の吉田朝啓は訴える。100年以上に及ぶ日本の「戦争史の終結点」として第32軍司令部壕を位置付け、二度と再び戦争を企て、これを加担し、故郷を荒廃させ、人々の命を脅かすような時代にならぬように全国民に訴えるための資料館を作りたいと。
第5坑口近くの県有地に計画した資料館。首里城見学後、壕内を見学し、第5坑口を出てEVで上がり、資料館に入る
首里城地下の第32軍司令部壕の位置が分かる模型。約2メートル角、長さ約400メートルの粗末な壕は湿気も多く、1000人の日本兵が潜み、南部撤退では負傷兵が置き去りにされたという
首里城一帯の地形模型。点線が地下壕のルートを示す。第5坑近くの県有地(現・県立芸術大学首里金城キャンパス)に資料館を計画すると仮定
ふくむら・しゅんじ
1953年、滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。現在、浦添西海岸・キャンプキンザー跡地利用計画や里浜22、第32軍司令部壕を保存活用する会などでも活動中。
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1849号・2021年6月11日紙面から掲載
沖縄戦体験者が望む戦争史の終結点
私が那覇市首里の城西小学校の建設現場にいた頃、まだ琉球大学の校舎が残り、守礼門ひとつがポツリと建っていた。現場からは不発弾も出た。当時の高江洲校長や宮城PTA会長からは沖縄戦の話を聞いた。校庭斜面に壕の入り口があったが、現場に忙殺され気に留めなかった。建設中の赤瓦屋根小学校の景観ばかりが気がかりだった。25年前、糸満摩文仁の平和祈念資料館建て替えに伴う設計コンペで私たちが選ばれた。沖縄戦を知るため書物を読み慰霊碑を見学したが、滋賀県大津市出身の私には、なぜか沖縄戦は遠い昔の出来事だった。しかし資料館の現場には、不思議な雰囲気があった。建築現場はどこも煩雑なのに、この現場に限っては誰もが落ち着き払い淡々と仕事をしていた。聞くと現場で働く誰もが「平和の礎」に身内の名前が刻銘されていて、資料館での作業が「平和を形にする」慰霊の気持ちであったそうだ。
数年前、沖縄戦当時の知事・島田叡(あきら)の「生きろ」というテレビドラマを見た。島田を調べていて、兵庫出身と聞いていた島田が私の母校の小学校のすぐ近くで生まれ、3歳までいたことを知った。当時大津市には日本陸軍があり、島田の父がそこの軍医だった。急に島田知事が身近になり、沖縄戦が人ごとでなくなった。
首里城焼失前の城西小学校と首里城一体の航空写真(写真/新建築)
糸満摩文仁の沖縄平和祈念資料館と平和の礎(写真/メディアユニット大野繁)
去年6月、86歳の垣花豊順氏が第32軍司令部壕の保存公開を公約に県議選に出馬したが落選した。その後、垣花氏の娘さんに頼まれ、保坂元琉大教授からの資料提供もあって地下壕の位置がわかる首里城一帯の模型を作った。保存公開の会では、子供の頃民家の縁側に座る湯上がりの裸姿の牛島中将を見たという壕保存会理事の吉田朝啓氏や牛島中将の孫である牛島貞満氏に会った。沖縄戦は歴史上の遠い昔の話でなく、身近なことなのだ。首里城は残念ながら火災で焼失したが、華々しい琉球王国の時代を感じさせ多くの観光客や地元の人を集めた。しかし、負の遺産である司令部壕は未調査部分に遺骨があるにも関わらず戦後76年間忘れられている。
実相知るきっかけに
確かに沖縄戦を伝える資料館や書物や慰霊碑はたくさんある。しかし戦後生まれの人々にとってはそれらを見ても沖縄戦の悲惨さが実感できない。2メートル角の粗末な薄暗い壕の空間を体験することこそ、沖縄戦の実相を知るきっかけになる。
今87歳の垣花豊順と90歳の吉田朝啓は訴える。100年以上に及ぶ日本の「戦争史の終結点」として第32軍司令部壕を位置付け、二度と再び戦争を企て、これを加担し、故郷を荒廃させ、人々の命を脅かすような時代にならぬように全国民に訴えるための資料館を作りたいと。
第5坑口近くの県有地に計画した資料館。首里城見学後、壕内を見学し、第5坑口を出てEVで上がり、資料館に入る
首里城地下の第32軍司令部壕の位置が分かる模型。約2メートル角、長さ約400メートルの粗末な壕は湿気も多く、1000人の日本兵が潜み、南部撤退では負傷兵が置き去りにされたという
首里城一帯の地形模型。点線が地下壕のルートを示す。第5坑近くの県有地(現・県立芸術大学首里金城キャンパス)に資料館を計画すると仮定
ふくむら・しゅんじ
1953年、滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。現在、浦添西海岸・キャンプキンザー跡地利用計画や里浜22、第32軍司令部壕を保存活用する会などでも活動中。
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1849号・2021年6月11日紙面から掲載