フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[1]| 玉那覇有紀さん|タイムス住宅新聞社ウェブマガジン

沖縄の住宅建築情報と建築に関わる企業様をご紹介

タイムス住宅新聞ウェブマガジン

スペシャルコンテンツ

建築

2020年11月13日更新

フクハラ君 沖縄建築を学びなおしなさい[1]| 玉那覇有紀さん

本連載は、沖縄建築について学ぶべく、一級建築士である普久原朝充さんが、県内で活躍してきた先輩建築士に話を聞き、リポートする。初回は玉那覇有紀さん。親から受け継いだ玉那覇味噌醤油を経営しながら、ひめゆり平和祈念資料館の設計などに関わってきた。文・写真 普久原朝充

「使命感」胸に時代を継承



㈱有建築事務所 取締役会長、㈲玉那覇味噌醤油 代表
玉那覇有紀さん(84)

たまなは・ありのり/1935年、那覇市通堂町出身。一級建築士。高校3年のとき上京。68年、横浜市にて有建築設計事務所を設立。71年に帰沖し、玉那覇味噌醤油の経営を手伝いながら、沖縄国際海洋博覧会場内の施設や、ひめゆり平和祈念資料館の設計を手掛ける。92~95年、沖縄県建築士事務所協会会長。98~2002年、沖縄県建築士会会長。13年に事務所代表を退任し、取締役会長に就任。

 

建築士と味噌醤油屋経営の二足のわらじ


今は首里の老舗である玉那覇味噌醤油の代表者として知られる玉那覇有紀さんだが、10代に上京してから30代にかけての多感な時期のほとんどを本土で暮らしていた。戦後復興とその後の高度経済成長の空気を肌に感じつつ、設計事務所も本土で立ち上げ、大阪万博の仕事にも関わった。

そんな玉那覇さんが沖縄に戻り、味噌醤油蔵を継ぐのは覚悟のいることだっただろう。しかし沖縄でも設計業をあきらめずに味噌醤油屋経営との兼業を続け、時代を象徴するような事業にも携わった。例えば、沖縄国際海洋博覧会では「民族・歴史クラスターの管理サービス施設」等の設計を手掛け、沖縄コンベンションセンター構想では調査研究委員を務めた。

その過程で中山良彦氏と知り合う。海洋博では総合プロデューサーとして沖縄館の展示を手掛け、館長を務めた人物だ。このつながりが、ひめゆり平和祈念資料館建設に結びつく。


設計図面を眺める玉那覇さん


復帰前に本土で取得した一級建築士免許(上)と、1971年の帰沖時に琉球政府から交付された免許証(下)。本土復帰前の沖縄が日本とは別の国だったことが分かる。戦後復興や高度経済成長といった本土での新しい変化を、仕事と生活の両面で感じ取った玉那覇さんは「楽しかった」と振り返る



当時を再現した意匠

1982年、ひめゆり同窓会総会で平和祈念資料館建設構想が決定された。その建設構想の総合プロデューサーとして中山氏が選ばれ、その中山氏の推薦により玉那覇さんは設計に関わることになる。

「それこそ、何を展示しようかとか、施設の利用料をいくらに設定しようかという段階から関わったからね。関連する物品のほとんどが戦争で焼失してしまっていて展示できるものが少ないから、証言録などを主体とした展示をどう見せるか話し合った。鹿児島の知覧特攻平和会館なども皆で訪ねて参考にしたよ」

国道から少し長い参道を通ると正面にはガマと慰霊碑。資料館は、その左手に続く道の先にある。建物の入り口や門構えの意匠は、在りし日の第一高等女学校校舎を模しており、参道に沿って植えられた相思樹も当時を偲んだものだ。

展示室ごとに分けた棟を回廊でつなぎ、静謐な中庭を囲うように配置している。要所要所に設けられた窓や回廊から手入れの行き届いた中庭の草花が見えて、厳かな気持ちになる。

「元学徒隊の方々も一緒に夜遅くまで議論したよ。大変だったけど楽しかったね」と振り返る。


ひめゆりの塔の横に資料館へのアプローチが延びる。往年の校舎を想起させる相思樹並木と門構えになっている


無視できない先人の思い

味噌醤油屋と設計事務所の経営。勝手の異なる仕事を両立させるのは大変だったろう。本土での生活に未練はなかったか尋ねると「今の子は違うかもしれないけれど、親に呼び戻されたら仕方ないよね。上の世代の苦労も見ているから、味噌醤油屋を続けないといけない使命感があった」と玉那覇さんは笑った。

さらりと語ってくれた「使命感」という言葉だったが、そこには損得だけではない内発的な気概が感じられた。

その気概を支えたのは、何だろうか。戦争で倒壊した味噌醤油屋の建て直しやひめゆり平和祈念資料館建築における元学徒の想いなど、上の世代からの影響は無視できないだろう。

戦後75年がたとうとしている。継承がテーマとされる時代に学ぶべきことは何か教えてもらった気がした。


玉那覇味噌醤油の、戦前から残る屋敷囲いの石垣。建物も戦時の爆風で倒壊したが、残った木材を再利用して戦後に建てられている



ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)
沖縄戦で陸軍病院の看護要員として従軍し、犠牲となった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の学徒たちの鎮魂と継承のために設立された平和祈念資料館。
1989年の開館後、多くの来館者が訪れており、それに対応するため多目的ホール、収蔵庫、第6展示室など数回の増築を重ねている。2021年4月にはリニューアルオープンも予定している。
玉那覇さんは(公財)沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団の評議員として、現在も同資料館に関わっている。


過度に戦争の悲惨さを強調するのではなく、学友の死を悼み平和を希求する願いから、気持ちを落ち着けて過去と向き合えるよう緑豊かな中庭を中心に8つの棟が連なっている


エントランス。奥には中庭が広がり、厳かな緑の風景が絵画のように切り取られている


エントランス棟と展示棟をつなぐ半戸外の通路




那覇市首里大中町にある玉那覇味噌醤油は、王朝時代から親しまれている老舗。門構えも気品が漂っている


みそ蔵内。みそ醸造に欠かせないコウジカビが付着して白くなった柱


大きな醸造樽(たる)は、現在沖縄で作ることのできる職人さんが不足してるとのこと


テニスで国体出場
本土に住んでいたころ、登山やスキーを楽しんでいた玉那覇さんは、帰沖後もテニスの沖縄代表選手として国体に3度出場(壮年の部)したほどのスポーツマン。海邦国体では県テニス協会の理事長として県選手団をまとめ、総合上位に導いた。その後、同協会会長も務めた。
また、県建築士会会長を務めていたときには、会員で運動会を催したこともある。



[文・写真] 普久原朝充
ふくはら・ときみつ/1979年、那覇市生まれ。琉球大学環境建設工学科卒。アトリエNOA勤務の一級建築士。『沖縄島建築 建物と暮らしの記憶と記録』(トゥーバージンズ)を建築監修。

毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1819号・2020年11月13日紙面から掲載

建築

タグから記事を探す

この記事のキュレーター

スタッフ
週刊タイムス住宅新聞編集部

これまでに書いた記事:985

沖縄の住宅、建築、住まいのことを発信します。

TOPへ戻る