伝説のカフェ 新たな船出(今帰仁村)|オキナワンダーランド[33]|タイムス住宅新聞社ウェブマガジン

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2018年12月14日更新

伝説のカフェ 新たな船出(今帰仁村)|オキナワンダーランド[33]

沖縄の豊かな創造性の土壌から生まれた魔法のような魅力に満ちた建築と風景のものがたりを、馬渕和香さんが紹介します。

波羅蜜(ぱらみつ)(今帰仁村)


東日本大震災によって突然の終わりを迎えたカフェの名店「coya(コヤ)」。店主の西郡潤士さん、根本きこさん夫妻は、移住先の沖縄で、二度とできないとあきらめていたカフェを再び始めた
 

「その店を出る時、映画を一つ見終わったような感動が胸にこみ上げたのを覚えています」

現在は3児の父である西郡(にしごおり)潤士さんは、当時まだ大学生だった。ある日思い立って横浜から北行きの電車に乗り、三つ先の県まで遠出をした。

「目当ては小さな喫茶店でした。カフェ好きの人なら一度は足を運ぶ、カフェ界の“金字塔”として今でも知られる店です」

磨き抜かれた感性によって独自の世界観がちりばめられた店内。もてなしの心がこめられたこまやかな接客。五感に飛び込んでくる全てが琴線に触れた。

「厨房(ちゅうぼう)の中で人が動くシルエットや誰かが木の床を歩く音さえも深く印象に残る店でした。喫茶店とは、こんなにもドラマチックな感動を作り出せる場所なんだと衝撃を受けました」

時はめぐり、西郡さんは生まれ育った神奈川県の海辺の街に「coya(コヤ)」という名のカフェを開いた。古い建物を改装して古道具をあしらったレトロでナチュラルな空間と、料理書を何冊も執筆するほどの腕前を持つ妻、根本きこさんの料理が評判を呼び、瞬く間に全国に名をとどろかせる伝説のカフェになった。

しかし7年前のあの日、愛着ある店は突然の終わりを迎えた。

「午後2時46分。店は営業中で、お客さんもいました。『あれ、停電だ』と思った数秒後に未体験の揺れが襲ってきました」

放射能に関するさまざまな情報が耳に入ってきた。「子どもたちを被ばくさせたくない」。西郡さんは車に荷物を積み込み、家族を連れて西へ向かった。

 「coyaを再開することはもうないだろうと思いました。一つの時代が終わるのを感じました」

鹿児島からフェリーに乗って沖縄にたどり着いた一家は、東村の古民家を借りて暮らし始めた。インフラが整備されていない「自然のど真ん中」だったから、飲み水を確保するにもハブが出る山道を歩いて湧き水をくんで来なくてはならなかった。

「都会っ子の自分がいきなりハードな環境に飛び込んで苦労もしたけれど、『やればできる』という自信もつきました」

もう二度とできないだろう、とあきらめていたカフェへの思いにも、いつしか変化が起きた。

「僕も妻もやっぱりカフェが好き。あの時止まった時計をもう一度ネジを巻いて進ませようという気持ちが湧いてきました」

今帰仁村で見つけた元木工所を自分たちでカフェに造り替えた。果樹のジャックフルーツの和名から「波羅蜜(ぱらみつ)」と名付けて今年春に開店した。

テーブルにコップを置く時も、「お客さんの心理を想像して」一番いい位置を見極めるという西郡さん夫妻。二人が営む波羅蜜は、置かれた家具、流れる音楽、供される料理の一つひとつに研ぎ澄まされた美意識が宿る。

「お客さんにとっていい時間、いい何かが生まれてほしい。そのための場を整えておきたい」

何が生まれるかは分からない。でも、何が生まれてもいとおしい。

「たまたま隣り合わせたお客さん同士が会話を始めるかもしれない。赤ちゃんが泣き出して、その泣き声がいい感じのBGMになるかもしれない。ここで起きるそうした出来事をライブや映画の観客にでもなった気分で楽しませてもらっています」

7年の空白を経て再びカフェをできる喜びが、とびきりの笑顔となって弾けた。



店名「波羅蜜」の由来になったジャックフルーツを手に、西郡さん。「波羅蜜は仏教語でもあって、悟りの世界にいたるという意味だそうです。悟る気はないけれど(笑)、いい言葉です」


もとは木工所だった建物をセルフリノベでカフェに改装した。「海も山も見えない立地なので、建物の中だけでお客さまから見える風景が完結するようにと意識して内装をデザインした」という店はどこを切り取っても絵になる


西郡さんが手作りした家具の静かなたたずまいや使い込まれた古道具の枯れた味わいが、差し込む光や落ちる影と相まってわびさびのような趣を店内に添える。黒枠の窓の向こうに、鉢植え植物であふれる癒やしのエントランスがある


ひょうたん製だという珍しいスピーカーから、アコースティックギターや女性ボーカルの優しい音楽が流れる。西郡さん夫妻の繊細な感性が生んだ“空間作品”のような波羅蜜では、人のシルエットや響く音さえも詩のように美しい

オキナワンダーランド 魅惑の建築、魔法の風景




[文・写真]
馬渕和香(まぶち・わか)ライター。
元共同通信社英文記者。沖縄の風景と、そこに生きる人びとの心の風景を言葉の“絵の具”で描くことをテーマにコラムなどを執筆。主な連載に「沖縄建築パラダイス」、「蓬莱島―オキナワ―の誘惑」(いずれも朝日新聞デジタル)がある。

 


『週刊タイムス住宅新聞』オキナワンダーランド 魅惑の建築、魔法の風景<33>
第1719号 2018年12月14日掲載

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