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2016年12月30日更新
建物は歴史を語る|建物にこもる人々の愛着
「時代を超えて残したいもの」をテーマに築40年を超える三つの建物を取り上げる。大宜味村役場旧庁舎は築94年、国の重要文化財(重文)になった。那覇市民会館は大地震に耐えられないと判断され、現在使用禁止に。沖縄県教育福祉会館は老朽化が激しいため、取り壊しが決まった。いずれも建築史に名を刻む建物を、それぞれの建物に思いを寄せる3人の話を通して紹介する。
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新しい会館建設 次の世代に期待
沖縄県教育福祉会館(那覇市)10本の縦ルーバーのようにデザインされた外壁は、建築家の評価も高い。内装品の多くは新しい会館にも引き継がれる予定だ
源河朝徳さん(74)は元県高校教職員組合委員長で、同教育資料センター事務局長も長く務めた。組合事務所とセンターがあった県教育福祉会館のいわば、主のような存在だ。会館は1976年落成。
会館建設には「自力更生の精神」が生かされたという。自分たちの頭で考え、自分たちの力を合わせて、自分たちの資金でつくる精神だ。「会館はね、設計より先に、若い芸術家たちのアイデアが生かされたんだよ」。源河さんは大ホールの緞帳(どんちょう)、3階ロビーの壁面いっぱいのオブジェを示しながら、新しい活動拠点建設に燃えた当時を語った。
2004年に訪れたチューリヒ工科大学の現代建築学の教授が、同会館の文化的価値を、那覇市民会館とともに高く評価したという。10本の縦ルーバーのようにデザインされた外壁は、西日をさえぎりながらも風を取り込む工夫がされ、階段の手すりは親指と残り4本の指がすんなり収まるように湾曲しており、利用者目線の工夫がされている。
内装で目を引くのが、1階階段壁面にびっしり張り付けられたイタリア製の大理石れんが。上がり口には今帰仁産のマツの老木。3階ホール入り口の天井には屋久島の土埋木の輪切りが設置されている。礎石と亀石は名護市辺野古以北の海岸から調達した。
「100年はもつだろうと予想していたが…」。塩害が老朽化を早めたと源河さんは悔しがり、「温故知新の精神を忘れず会館が再建され、平和と民主主義の殿堂としてよみがえってほしい」と後輩たちに期待した。
階段の手すりには目の不自由な人への心配りが施されている
3階ホール入り口の天井にある屋久島の土埋木
大黒柱は、今帰仁村から取り寄せた松の老木だ
重要文化財指定、思い新た
大宜味村役場旧庁舎デザインは西洋の絵はがきを参考にした。全長は20.86メートル、幅は12.59メートルある。窓は上げ下げ式で、当時は木製だった(写真は4枚とも木下さん提供)
木下義宣さん(64、県立美里工高教諭)は、大宜味村役場旧庁舎を設計した故清村勉氏とかつて沖縄の建築について調査・研究した経験がある。国の重文になったことについて「ラジオでニュースを聞いて、翌朝新聞で読んで、その日の夕方見に行ったよ」と話し、清村さんの一連の作品群について熱く語った。
鉄筋コンクリートの建物は歴史的には、寒さをしのぐために欧州で発達した。清村さんは台風と白アリ被害が著しい沖縄にこそ必要な建築法だと大正時代に気付いた。
当時からコンクリートの敵は塩分ということを知っていた清村さんは、旧庁舎を建設するときにセメントと配合する砂の塩分に気を使った。自ら浜に出て海からの距離によって塩分濃度が違うことを確かめたり、砂の水洗いを丁寧にしたりと相当気を使った。
鉄筋は腐食を防ぐために、コンクリートのかぶり厚を約6・35センチと十分にとった。表面はモルタルを2、3回塗り、仕上げた。木下さんは「1925年当時は鉄筋コンクリート造は日本に伝わって間もないころ。施工実績は全国でおそらく4、5件だったはず」と、設計者の腐食への心の砕きように関心する。
建築工事は丁寧な仕事ぶりで評判の「大宜味大工(ウジミセーク)」が担った。木造がほとんどの当時、鉄筋工はいなかったが、清村さん自ら鍛冶屋に出向き、鉄筋を曲げるのに使うベンダーの製作を指導。配筋の手順も教えたという。
型枠のこともだれも知らない。材木は合板の現在と異なりスギの一枚板。つなぎ合わせての型枠つくりは困難を極めただろうことは容易に想像がつく。
清村さんが数多く手掛けた建築物の中で名護市の部間権現(1926年建設)、護佐喜御宮(29年建設)は現存する。文化財指定して「残したい」建物に加えたいものだ。
棟屋は台風対策で八角形をしている。帰港する漁船が大漁かどうか見たいという村長の希望で追加された
村長室の窓から確かに海が見えた
棟屋の村長室の天井。中央部には当時、ランプつりの銅線のフックがあった
沖縄伝統文化発信し続けて
那覇市民会館沖縄赤十字病院屋上から見た外観。中央の外階段と2階プロムナードを挟んで右側が大ホール、左側が中ホールになっている
上原正吉さん(75)は芸歴48年の民謡歌手。これまで幾度も、周年記念のチャリティーリサイタルを、1970年に建った那覇市民会館で開いてきた。その度に、那覇市社会福祉協議会に多額の寄付金や車両を贈呈した。市社協とのつながりもあって同会館はよく利用した。会館が取り壊される可能性があることについて「地震には勝てないから」と一定、理解を示すも、思い出の場所がなくなることには寂しさをにじませた。
上原さんにとって、同会館は立地の良さがお気に入り。今帰仁村出身ながら、ファンは南部地域にも多いという上原さん。「バスに乗って開南、与儀十字路で降りたら会館はすぐ前ですから」。それと那覇市内の自宅に近いのも、便利に思える要因の一つだ。
収容人員が多い同会館だが、1日3回公演を毎回大入り満員にしたこともある。それでも入り切れない観客が、大勢詰め掛け、通報で消防が出動したことも。
アマハジ(軒下空間)やヒンプン(母屋と門の間の目隠し)など沖縄の伝統建築の様式を取り入れて建設された同会館は建築上の価値だけではなく、沖縄の伝統文化の発信拠点としての価値も兼ね備えている。
上原さんは「(皆が喜ぶよう)いいように考えてほしい」と、今後に期待した。
ロビー中央にある横長の琉球石灰岩のヒンプン
東側から見た軒
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞 年末年始特別号 第二集 第1617号・2016年12月30日紙面から掲載
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