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2017年1月7日更新

戦後語る 政治の舞台|琉球政府立法院(旧沖縄県議会)

「時代を超えて残したいもの」をテーマに、今は無き「立法院・旧沖縄県議会」について、沖縄タイムスOBの東條正躬(70)さんに話を聞いた。記者時代、通い詰めた立法院・旧県議会を「威風堂々とした建物だった」と語り、取り壊しを惜しむ。1954年に建設された立法院は、のちに沖縄県議会と名を変え、琉球から沖縄へ変わりゆく激動の時代で政治の舞台となった。建て替えに際し解体か保存かで議論となったが、1999年に解体された。戦後の沖縄を語る立法院を記憶に残したい。  


立法院の外観。右側が議事堂で左側が事務局棟。東條さんは「写真は、まだ立法院だったころ。私が覚えている旧県議会時代には門前にシーサーがあった」(那覇市歴史博物館所蔵)

議員に個室 立法院から
現在の沖縄県議会は、国会のように県議一人一人に居室が与えられている。他府県の議会に無いスタイルは、米国統治下で琉球政府の立法機関であった議会「立法院」の流れをくんでいる。
東條さんは、立法院の図面3、4階部分をトントンと指さし「ここが議員居室。階段横には記者クラブがあった」と説明する。議員居室は、「議員と秘書の机、ちょっとした応接セットが入ればギュウギュウだった」。記者がひっきりなしに出入りし、「個室とはいえ、入りにくい雰囲気はなかった。開かれた感じだったな」と話す。
立法院のそばには、米国民政府や琉球政府の庁舎として使われていた「行政府ビル」があった。造りは米国式。「覚えているのはトイレ。男子トイレにあった洋式便座はアメリカ人向けの仕様で、ウチナーンチュが腰掛ければ足がブラブラ宙に浮いた」
一方で立法院は、「県民に寄り添った、威厳のある建物だった」。設計を手掛けたのは沖縄を代表する建築家・大城龍太郎氏。沖縄で初めての設計競技(コンペ)によるものだった。
外観は縦に並ぶコンクリート板がまるで「アコーディオンのようだった」。内部は飾り気がなく、飴色の机やどっしりした扉があり、「重厚な造り」を東條さんは記憶している。表には、沖縄の象徴であるシーサーが鎮座していた。阿吽それぞれに「当時の有力議員、『新垣淑重』『親川仁助』の名が付いていた。口元が似ていたんだよなぁ」と笑う。


立法院の本会議議事堂。2階から吹き抜けの議場、3階は傍聴席。東條さんは左上の記者席から本会議を見守った(キーストンスタジオ提供、那覇市歴史博物館所蔵)​


保存の声 世論に響かず
当時の泉崎には立法院や行政府ビル、警察の武道場である「武徳殿」、警察関係棟、那覇市役所などがあり政治の中心地だった。いまも県庁、県議会、県警があり、同じく中心地ではあるが「あのころの面影はない。戦後の沖縄を語る建物は、すべて無くなった」と東條さん。

行政府ビル、武徳殿が取り壊され、立派なコンクリートの建物が次々と建っていった。立法院も事務局のあった棟は壊され、議場のある議事堂だけがポツンと佇んでいた。「昔の姿を知る人ほど、見るのが辛かっただろう」。威厳のあった建物はそのころ、「古びれた」「取り残された」様相を呈していた。
立法院議事堂の保存を訴える市民団体はいくつかあったが、世論を動かすまでには至らなかった。当時の県民は、沖縄の自立や成長への期待が大きく、「古きを残す」より「新しい道を進む」ことへ目が向いていた。
「無くなったものは戻らない。今さらだけれど、立法院は残しておくべきだったのでは…」。東條さんは取材中、何度も何度も惜しんだ。
2階から4階までの大胆な吹き抜け、厚みのある扉。「博物館になり得た。しっかり議論をし、計画を立てて活用すべきだった」との後悔が残る。
保存か解体か、議論が揺れる建物は今もある。「目の前のことだけでなく、後世のこと考えて議論を尽くすべきだ」。


那覇市泉崎の立法院があった跡地には、説明版と当時の写真が掲示されている。県庁と県警の間、道沿いにあるが、立ち止まる人は少ない

※参考資料/沖縄県議会の概要(旧県議会庁舎お別れ式記念誌)
季刊紙 Senior wave (シニアウェーブ冬号)第5号2017年1月7日紙面から掲載

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