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2022年5月13日更新

[沖縄・建築探訪PartⅡ(23)]首里城地下の司令部壕 (那覇市)

次世代に残したい沖縄の建造物の歴史的価値や魅力について、建築士の福村俊治さんがつづります。文・写真/福村俊治

首里城地下の「二つ」の世界遺産

首里城地下の司令部壕(那覇市)

ウクライナでの悲惨な戦いが日々報道されている。美しかった街ががれきとなり多くの住民が戦いに巻き込まれた映像を見ると、77年前の沖縄戦と重なる。

沖縄戦によって失われた首里城は、その後日本復帰20年記念事業で1992年に復元され、2000年世界遺産に登録された。しかし残念なことに19年10月に全焼した。本殿そのものが世界遺産であると勘違いしている人がいるが、実はその地下の「石積みの遺構」などの構成資産、言い換えれば450年続いた琉球王国の顕著な普遍的文化価値が評価され世界遺産となった。火災後もすぐ支援の声が上がり、着々と復興の話が進み、26年頃には再建の予定だ。

その首里城地下にもうひとつ忘れてはならない重要な遺跡がある。第32軍司令部壕である。日本は明治維新後、日清・日露・日中戦争、そして第2次世界大戦へと突き進み、最後に悲惨な沖縄地上戦と広島・長崎の原爆投下で結末となった。本土決戦を遅らせるための捨て石とされた沖縄戦の作戦が立てられ命令が出されたのがこの司令部壕であった。だから「この司令部壕がどんなもので、そこで何が行われてきたか」を検証し保存公開することこそ、沖縄戦の核心に触れ、実相を伝え、平和を希求する場となる。しかし、これまで何度か調査が試みられたが、今なお考古学的調査や文化財指定もされず、全容が明らかになっていない。


沖縄戦前のハンタン山付近、美しい曲面の石垣と濃い緑の大木に囲まれていた首里城(沖縄昭和10年代より)


地下司令部壕破壊のために集中爆撃され、地形が変わり岩石の山となった首里城(沖縄公文書館)


現状の空撮写真に落とした司令部壕の位置

沖縄戦の実相は地下に

沖縄戦首里陥落直後に作られたインテリジェンス・モノグラフという米軍の調査資料には壕内の測量図や当時の写真などが残っている。今回この資料に基づいて模型を作った。司令部壕の位置、壕の全体像、中枢部の詳細が「見える」模型だ。この模型から司令部壕が深い地下にあって、壕の断面が約1・8メートル角と小さく、アリの巣のように複雑であったことがわかる。また、守礼門のほぼ真下にある司令官室や木曳門(こびきもん)あたりの司令中枢部の諸室、そして兵隊が立てこもった坑道も確認できる。いずれにしても床が水浸しで、換気が悪い急ごしらえの司令部壕だった。

この第32軍司令部壕を詳しく調べる沖縄戦研究者は言う。この沖縄戦が明らかに負け戦であるにもかかわらず、大本営やアジア・沖縄各地と日夜交信した情報は現実とは大きくかけ離れた誇大・虚偽化され、しかも作られた作戦や命令もあまりに無謀なものだった。つまり第2次世界大戦の最も悲劇的な沖縄戦の実相の原因は、首里城地下の第32軍司令部壕にあり、今なお闇の中に埋もれていると。

第32軍司令部壕は、「負の遺産」であるアウシュビッツ強制収容所や広島原爆ドームと同等の重要な意味を持つ世界遺産たりえる。


司令部壕全体模型。縮尺1:100 全長約1000m

司令部壕位置模型 縮尺1:500(地下15~35m、厚い琉球石灰岩層の下のクチャ層にあった壕)


壕内部の模型 縮尺1:20(天井高さ1.8m 幅1.5~2.4m)


世界遺産になっている広島原爆ドーム


アウシュビッツ強制収容所

[沖縄・建築探訪PartⅡ]福村俊治
ふくむら・しゅんじ 1953年滋賀県生まれ。関西大学建築学科大学院修了後、原広司+アトリエファイ建築研究所に勤務。1990年空間計画VOYAGER、1997年teamDREAM設立。沖縄県平和祈念資料館、沖縄県総合福祉センター、那覇市役所銘苅庁舎のほか、個人住宅などを手掛ける
毎週金曜日発行・週刊タイムス住宅新聞
第1897号・2022年5月13日紙面から掲載

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