「名前もないんじゃ、わからんはずよー」。運転する喜八郎さんは苦笑い。彼は与那国で宿を経営している父の友人で、僕らは日本最西端の島をぐるっと一周案内してもらっていた。(文・写真/本竹功治)
番外編:ルーツの旅/30年ぶりの与那国
というのも、ここに父方の墓があるのだが、なかなか赴く機会もなく、実に30年ぶりの墓参りだった。なんとなく、呼ばれてる気がすることってないですか? 与那国へ向かう数カ月前から、どぅなん(与那国のこと)の唄や泡盛、建築や映画など耳にすることが風の知らせのようにあって、これは行くしかない! 思いきって航空券を予約したのだが、墓の場所を教えてもらおうと実家に電話をするも、30年の間に親戚一同だれも与那国の墓に行ってないことが発覚…。そりゃあご先祖が呼んでいるんだろうな。そう思いながら、12歳のころに墓前で撮影した1枚の写真を手がかりに、与那国へと向かった。

1996年撮影。左が父、右がおじで中央が12歳の筆者。建造時期は不明。30年待たせてしまってごめんなさい〜
死者の都 ニンバラ
手がかりは1枚の写真のみ。とりあえず行ってみようと、僕らは島の北に位置する祖内集落から、向かってさらに北(ニチ)の側(バタ)を表す意で「ニンバラ」と、与那国の言葉で呼ばれる墓地群へと向かった。もともと、風葬の場所だったとされる丘には、1000はあると言われる大小さまざまな墓がある。岩壁を断層に穴を穿(うが)ち、周囲に平石を積み上げ多様に形づくられた墓が集まっている。広大な敷地は自生する草に覆われ、まるで古代文明の遺跡のよう。
と、そのとき「あったかもー!」遠くに見えた墓の輪郭に、それだ! とピンときた僕は車から飛び降りて崖を登った。
東シナ海を背後に激しく吹く北風、荒波が打ちつける切り立った断崖、まさに日本の果ての果て。そこに、緩やかに盛りあがった墓の上っ面らしきものが現れた。あれから30年、写真に写る墓はまだ亀甲の形がはっきりしていたが、いまでは植物に包まれ丸みを帯び、柔らかな自然の丘のようになっていた。お花をささげようと辺りを見渡すと、あちらこちらに色とりどりの花が咲いている。与那国には「風哭き(カディナティ)」と呼ばれる、風に乗せて死者を送る唄があるそうだが、島に吹く風はそれに応えるかのように、まぁるくなった台地に種を運び、残されたものたちへ花を咲かせているのかもしれない。足元に咲く花を手向け「この墓なら、ワタシ入ってもいいわ」と、母よねこがポツリとつぶやいた。

正面に見えるのが本竹家の墓。風化した琉球石灰岩に植物が自生し優しく包み込んでいる。死者の都は生きている!
駆け抜けた50年
きょうは6月23日。慰霊の日にこの原稿を書いている。芒種(ボーシュー)の長い雨もあがり、南から風が吹きはじめ沖縄の暑い夏がやってきた。この日は毎年、母方の祖母が書き残した手記を開く。10代で沖縄戦を経験した祖母は、その壮絶な体験を何十年にも渡って書き綴(つづ)った。読み返すたびに胸が痛む。それでも祖母の書き続けた歳月を思うと、心はふっと静かになる。戦争を書き記した50年ではない。焼け野原から戦後を駆け抜け、子を育て、孫も生まれ、それでも手を震わせながら家族を想(おも)い綴った50年である。

祖母の手記は2冊残されている。当時住んでいた那覇での十・十空襲、そして疎開先・満州から帰沖までの体験が綴られている
「子や孫たちが、己の道を踏みあやまらず、奢らず、心優しく広く、正しい道を歩んで欲しい。2度と戦争を起こしてはならないことを祈りつつ」
今年も祖母の声に耳を澄ます。ニンバラで咲いた花もまた、夏至南風(カーチーべー)にのって、まだ知らないどこかへと届くのだろう。
執筆者プロフィル

もとたけ・こうじ/アジアを旅する建築家。現在は津波古区を拠点に珊瑚舎キッズスコーレ森の校舎づくりなど地域の活動に関わる。
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毎週金曜日発行「週刊タイムス住宅新聞」アジアを旅する建築家が見た沖縄の暮らし(4)
第2113号(2026年7月3日発行)より転載